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少しだけ、センシティブなお話をしてもいいですか?-祖母の死と私のこれから-


2022年、2月の雪が降った平日の朝。

祖母の葬式が親族のみで行われました。


祖母の思い出は、小さい頃の曖昧な記憶と、入れ歯を使いこなせていないながらも、食欲が旺盛だったくらいです(笑)


けれど、祖母が亡くなるまでの期間にしておいてよかった、コロナ禍でも、できることを整理するきっかけを、祖母の死を通して記すことにしました。


※少し、『生死に関すること』も記載しています。苦手な方はお控え頂けたら幸いです。


なぜここで、書き記すのか?

2021年に色々な方のお力をお借りして、本格的に業種&職種ともに未経験への転職へ活動を起こすことができました。

また、ご縁もあり、ありがたいことに充実した日々を過ごしていました。

SNSでは書ききれない内容や、ご縁のあるみなさんに感謝の気持ちも込め、書き記すことができるnoteを選択しました。

ここに記載している内容は、

祖母の死をきっかけに、私は「どうしていきたいか」を忘れないため 
「今、どうしたらいいか迷子になっている方」の、ちょっとしたお助け
「一度立ち止まって考えてみる」きっかけ

上記と、私自身の振り返りを踏まえて綴っています。


※改めて『生死に関すること』も記載しています。苦手な方はお控え頂けたら幸いです。


「タイミング」はいつ来るかはわからない

一昨年の冬に、祖父が先立ってから、祖母は車が無いと買い物にも行けない環境にひとりで生活。

はじめは大きな病気はしていませんでしたが、歳を重ねるごとに、忘れやすくなる、体調を崩しやすくなるようになっていました。

衣類や住む場所はあっても、家の床が抜けている場所があったり、私でも乗り降りするのに、少し力がいる段差があり、90代の祖母がひとりで生活するのは現実的とは遠い状況で、第三者の支援や介入が必要な環境だったんです。

それでも、母や叔父の心配を他所に、良かれと思って勧めたデイサービスなどの福祉サービスの利用を本人は断固拒否していました(苦笑)

理由は今となっては、わからないけど「そういうところはしっかりしてて、祖母らしいね。」と、母と話をしていたのが昨年の春。


そして、祖父の死の一周忌を過ぎた頃に、「祖母が立てなくなった」とLINEに連絡がありました。

結果としては、慣れた自宅での生活は難しく、入院することになったのです。


病状は回復し、祖母の身体では元の自宅で生活するのは困難と判断され、やっと本人も自覚したようで、最終的に施設へ入所が決まりました。


その後、再び入退院を繰り返し、施設へ戻った頃には、徐々に祖母の『いのちのともしび』が小さくなっていました。

今では、「あれが予兆だったのかな」と感じます。


コロナ禍でようやくできた面会

2022年に入り、2月初めにそのときが訪れました。

「おばあちゃんが、危ないみたい。今から行きます」と母より連絡をもらった当日。私自身その日は、都合が悪くむかえず。

たとえ向かえてたとしても、コロナ対策もあり施設の方々の安全の確保もあるため、面会が制限されていたので、どちらにせよ会うことは叶いませんでした。(兄弟情報より)


その日は一時的に落ち着き、また翌日に面会する予定と連絡をもらってい他ので、翌日は、個人的なお仕事の予定をキャンセルし、半ば強引に「明日は面会行くからね!」と母へ宣言していました。


面会を諦めていた兄弟へも声をかけ翌日、無事に面会。痩せて、目を瞑った状態で、声をかけても開くことは無かったですが、右手を無意識的に動かしている祖母を見て、なんだか「祖母らしいなぁ」としみじみと祖母の横に立って過ごしました。


コロナ感染対策の都合上、面会時間に制限がありましたが、日曜日にもかかわらず、ご配慮・ご案内してくださった施設職員の方に感謝ばかりです。

そして、面会から3日後。祖母はそっと終わりを迎えました。

葬式の参列は、仕事の都合上、休みをいただくのが難しい状況だったので、遠くから祈ることにしました。あのとき、本当に面会に行けて、祖母の顔が見れて良かった。


「できる」「できない」は別として、言葉にしてみないと分からない

今回は面会が叶いましたが、コロナ感染や様々な理由や条件が揃わなければ、叶わなかったでしょう。

もし、面会を諦める選択を取っていたら、会えなかったかもしれません。例え、できなかったとしても、言葉にするのは大切だと体験しました。


振り返ると、可能か、不可能かわからないけれど、「聞いてみるのは、仕事や私生活においても通ずる」と感じます。

先方や上司が何を考えているのか?

パートナーは何を思っているのか?

そして自分自身は、どうしたいのか…?

聞いてみて、モヤモヤが少しでも晴れたならGood。モヤモヤせずに対応し、少し前向きに動けるようになる、方法の1つを見つけました。

今でこそ、専門職という肩書きを一度下ろして、転職したり、コミュニティに入って誰かと繋がったり。

2年前の私だったら「現場を維持する」のに必死で、「何かが変わる」のに恐怖心を抱いて動けませんでした。

他者の目を気にして、嫌われないように同調して。

あるいは何をしても駄目と決めつけて諦めたり。

相手に勝手に期待して、勝手に落ち込む。

そんな、『自己肯定感の低い自分』で生活していくのは、正直しんどかったです。これを一生続けたくない気持ちが、やっと出てきて、「誰かに、聞きにいく」を選びました。

もっと早く聞いたり、動いたりしていれば、自分で自分を追い込んで悩まずに済んだのかもしれません。

ただ、その経験があるからこそ、今こうしてたくさんの人と関わらせていただいて、ご縁があったのかとも思います。本当に、関わってくださっている方々に、感謝の気持ちでいっぱいです。


たかが『5年』、されど『5年』。決めるのは相手ではなく、私

私は20代後半をむかえ、専門職の肩書きを下ろすことにしました。

「資格を持っていたら安泰思考」から、「なんでもないだたの会社員」になるわけです。

……不安がないと言ったら、全く嘘になります(笑)

業界は大枠で捉えたら同じ業界ですが、業務内容やスタイルは異なるし、生活環境が変わり、引っ越し費用や金銭面の不安。「辞めます!」と、今の職場を退職すると決断する勇気…。

でも、すごく惹かれる事業内容やカルチャー。そして「働く人」の雰囲気に魅了されている私自身。

内定をいただいてから、毎日葛藤していましたし、なんで即決で「退職」を選択できないんだろうかと、悩んで、相談や壁打ちを依頼しました。ときには紙に書き出して。そこである“ブロック”に気づきました。

「辞めるの早くない?」とか「もったいない。無謀じゃない?」と両親や友人、周りから思われるんじゃないか?

そんな風に自分で勝手に決めつけて、自分で落ちる……。認知の歪みが私にバイアスをかけていたんです。

「自分の人生。後悔や諦めた気持ちで、ピリオドを打ちたくない」気持ちが湧き上がって、モヤモヤする気持ちを抑えながら仕事をしたくなかったので、専門職という肩書きを下ろしました。


誰に何を思われても、自分で考えて、納得して選ぶ。考える過程で、誰かに聞いてみるのも、新しい自分の答えだったり、自分の「ものさし」が長くなるかもしれない。

そんな風に、しなやかさを持ち続けて進んでいきます。

「なににでもなれる」可能性のあるワクワクと、どうなるかわからないドキドキの2つの気持ちを持ち合わせながら。

祖母のように、無理せず、私らしく歳を重ねていこう!

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