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ビジネス歳時記 武士のおもてなし「手紙」第38話

手紙で心を摑んだ、“筆武将”の 伊達政宗

7月の異称は文月。この季節の代表的な歳時の七夕では、古くから書の上達を願って短冊を飾ります。「書は人なり」と言いますが、仙台藩主として活躍した伊達政宗※は、 “筆武将”といわれるほどの能書家※でもありました。現在、古文書として残っている手紙は千通を超え、家臣や家族に宛てて自筆で書いた書状の中には人間味溢れる言葉が並び、今の時代に読んでも心を打たれるものがあります。

政宗が母への贈り物に添えた手紙や、離れて暮らす息子を励まし続けた手紙などには、数多くの逸話が残されています。今回は、戦国時代の中で手紙という手段で、人の心を摑んだ政宗の筆まめな一面をご紹介します。

戦に追われていた戦国武将たちの手紙は自筆が少ないといわれていますが、政宗の手紙で特筆すべき点は、その数の多さだけではなく、自筆の割合が7割を超えるという凄さ。これは、ねね様など女房たちに自筆の手紙を送ることが多かったという秀吉でさえも、かなわない記録です。その背景には彼が手紙を家臣との信頼や家族への愛情、友人との友情を結ぶ大切なコミュニケーション手段として考えていたことにあります。

また、時には敵対する相手に対する書状に対しても、「自筆こそが最高の礼」として自ら筆をとりました。それがどうしてもできない場合は、追伸の一言だけは直筆を添えるなどの工夫をしていました。

当時、権力を持つ公家や武士には祐筆 (ゆうひつ)という秘書がいて、公文書も私文書も指示により大半は彼らが書き上げ、差出人が花押※というサインや印を押して完成させました。この時代は、手紙にも身分制度による細かな約束事があり、それを踏まえて書くのには専門職を置いた方が便利だったのでしょう。

文禄2年(1593)7月、秀吉の指示で日本を離れて朝鮮に出兵していた政宗に、はるか離れた日本から母の義姫より手紙と3両(当時の価値で60万円くらい)のお金が届きます。それに感激した政宗は早速に「遠隔の地にお便りとお志をいただき、本当にありがたく感謝申し上げます」という内容の文章を、平仮名を多用した自筆の手紙で返信するとともに、別便で朝鮮の鮮やかな布を贈りました。

戦の合間を縫って、自分で手紙を書き、母を喜ばそうと現地の布や工芸品を探す政宗。母親と彼の不仲説など諸説ありますが、当時の女性としては行動的で気丈な義姫は、特別な存在だったのでしょう。政宗は日常の様子だけではなく、戦況までも具体的に手紙で報告していたそうです。
 
政宗は腹心の家臣を、この朝鮮戦争の戦地で病によって失っています。彼は日本で留守を預かる部下へ手紙で報告し、遺族には直接足を運んで政宗の手紙を見せて、慰め伝えるようにと指示をしています。のちには、遺族の幼い娘を成長するまで見守り、しかるべき家に嫁がせたという話も伝わっています。

政宗の読みやすく美しい平仮名の文字は、女性たちの間でも評判だったのでしょう。侍女に頼まれて古歌をしたためて贈ったという話も残されています。また、その書の巧みさだけではなく、政宗は和歌や狂歌、漢詩や茶の湯などの武士の嗜みや教養にもたけており、その素養をもとに長男の秀宗に手紙で添削などをしています。時には和歌の提出が遅いことを注意し、具体的な言葉使いの添削をして、歌会に備える心がけを諭しました。

政宗は生涯で10男4女の子どもに恵まれますが、その子ども一人ひとりの性格や置かれている状況に合わせて、手紙を送り続けました。実際、自分の妻や子どもを人質として江戸の藩邸に残したり、養子として差し出すことが行われており、秀宗も幼少時から秀吉の人質として親元を離れた生活が続いていました。秀宗は父の政宗と疎遠な関係が続いていましたが、その父の手紙が和解の大きな力となりました。

時代を問わず、一文字ずつ心を込めて書かれる手紙は何度も読み返すことができて、書き手が亡くなったとしても、読み手を時には励まし、人生を照らす道しるべとなってくれるのです。

【監修】
企画・構成 和文化ラボ
東京のグラフィックデザインオフィス 株式会社オーバル


※伊達政宗[1567-1636]
安土桃山時代から江戸初期にかけての武将。幼時に右眼を失明し独眼竜と称された。奥州を制覇し、のちに豊臣秀吉に仕えて朝鮮に出陣。関ヶ原の戦い・大坂の陣では徳川方について仙台藩の基礎を固めた。キリシタンに関心を持ち、支倉常長をローマに派遣するなどした。

※能書家
筆で字を書くことが上手な人。巧みな人。日本の書道史上の優れた能書家には平安の三筆、空海(弘法大師)、嵯峨天皇、橘逸勢があげられる。

※花押
署名のかわりに書く記号のようなもの。判子と区別して書判ともいう。個人の区別をして証拠力を上げて偽作を防ぐため、さまざまな工夫がなされた。伊達政宗の花押は鶺鴒(せきれい)という鳥の姿に似たもの。ある時、秀吉が政宗のものとされる書状の真偽を問うと、政宗は自分の花押は鶺鴒の目玉にあたる点の位置が異なるので「偽文書である」と申し立てて事なきを得たといわれる。ある説によると、政宗は墨による点だけではなく、偽造を避けるために針で穴を開けていたとされる。


参考資料
『素顔の伊達政宗「筆まめ」戦国大名の生き様』
(佐藤憲一著 洋泉社)
『伊達政宗の手紙』(佐藤憲一著 新潮選書)
『日本風俗史事典』(日本風俗史学会編 弘文堂)



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