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ビジネス歳時記 武士のおもてなし 第51話「花見小袖」

春爛漫を演出した、秀吉の「良き夢」


各地から桜の便りが届き始める3月は、花見の季節に入ります。旧暦の慶長3年(1598)3月15日には、豊臣秀吉が京都・伏見の醍醐寺(だいごじ)※で、歴史に残る絢爛豪華な「醍醐の花見」を行いました。

醍醐寺に咲き乱れる桜の花とともに、秀吉に連れ添う正室のおね※や側室、家臣、味方についた大名の妻女や息女1300人とされる女性たちが、贈られた美しい小袖※で饗宴に招かれ、秀吉は「我が世の春よ」とその情景を心ゆくまで楽しんだのでした。

「良き夢を見するがな」と、人を喜ばせること、中でも女性たちが喜ぶことについては特別にマメだった秀吉。今回は、秀吉自身の花見だったともいえる「醍醐の花見」で、彼が残したものについて考えてみたいと思います。

花見が開催された理由のひとつに、秀吉が采配をした朝鮮出兵の戦況が振るわず、国内の景気も芳しくなくなり、その機運から民衆の関心をそらすために行ったという話があります。また一説には、その桁外れに豪華な花見は、秀吉が自身を鼓舞するために行った予祝的な意味合いがあったともいわれています。

花見の主客は、秀吉を取り巻く女性たちでした。その証拠に、醍醐寺に残されている「醍醐花見短籍(だいごはなみたんざく」)という和歌の詠み人は、そのほとんどが女性。秀吉は、大好きな美しい女性たちに囲まれ、花見という非日常の場を創り出すことで、権力の炎を再燃しようとしたのかもしれません。

また、2年前に居城としていた伏見城が、震度7の「慶長伏見大地震」に襲われ、多数の死者を出す災害にあったことも、花見の実現に拍車をかけることになりました。

会場となった醍醐寺は、古くから桜の名所として知られており、桜の季節には桜会(さくらえ)という法要が行われていました。しばらく途絶えていたこの法要を復活させ、地震で命を失った者への鎮魂とすることを思いついた秀吉。死者へ桜を手向けるという大義名分も果たせる桜会を、秀吉は自身のさらなる野望のために豪華な花見の要素を加えて、自ら下見を重ねてさまざまな演出をしたのでした。

花見当日、伏見城から醍醐寺まで輿(こし)で乗り入れた秀吉一行。境内に特別に設けられた御殿で、女性たちは用意された花見用の小袖に着替えました。そこには、秀吉が“仮装行列”と称して刺繍や、金箔、銀箔を散りばめたものや絞り柄など、豪華な小袖が人数分用意されており、その衣裳を用いて3回も着替えさせたという話が伝わっています。

そして、秀吉を先頭に一行は、花見へとゆっくり歩き出しました。境内にある槍山へと通じる道の両側には、この日のために急遽植えられた桜の樹が700本。実は、その道は元来女人禁制区域でしたが、寺に寄進を重ねることで掟を変えさせてしまいました。その道筋には8棟の茶屋が設えられ、各地の銘酒や点茶や菓子なども用意されていました。

こうした花見の設営は秀吉が準備しましたが、女性たちの絢爛豪華な小袖は薩摩藩の島津義久※が用意したもの。島津家の朝鮮出兵に不満を持っていたとされる義久に対して、秀吉への忠義を試すためにわずか1カ月ほどで用意させたといわれており、こんなところにも狡猾な秀吉の計算が働いていたといえましょう。

秀吉は、この醍醐の花見の5カ月後に62歳の生涯を閉じますが、彼が生きた桃山時代は長い戦国時代の終わりにあたる勢いのある時代。秀吉の他に伊達政宗など新興の大名たちが力を持ち始め、南蛮貿易や領内の山海物の収集や生産にも力を入れ、商工業も発展してきます。文化面では狩野派の画家たちが、紅や金箔などを使って大胆な花木や動物を描く障壁画(しょうへきが)が寺や武家屋敷を彩ったのもこのころです。

こうして、秀吉が演出した花見で着用された小袖の染めや織りの技術。それはその後の江戸時代入ると、花見に贅を尽くした粋な小袖を着る女性の“花見小袖”として町民にも定着します。元を辿ればその流行を創り出したのは秀吉。結局は自分をもてなすことに酔いしれた、彼が残した唯一の置き土産だったのかもしれません。

【監修】
企画・構成 和文化ラボ
東京のグラフィックデザインオフィス 株式会社オーバル


※醍醐寺
貞観16年(874)の開創。京都市伏見区にある真言宗の総本山。山号は深雪山・笠取山。平成6年(1994)に「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産に登録された。
 
※小袖
現在の和服の基本になった、袖口を縫いつめた衣服。元は平安時代に貴族が着用した白絹の下着だったが、のちに上着として着用するようになり、染織や柄も工夫された。
 
※おね [1548 -1624] 
秀吉の正室おね。「北政所」という尊称でも知られる。14歳で秀吉と結婚し、子宝には恵まれなかったが、糟糠の妻として内助の功を発揮し、秀吉の死後出家し高台院と名乗り、高台寺を建立した。
 
※島津義久[1533 - 1611]
安土桃山時代の薩摩藩の武将。九州全土を統一支配したが、豊臣秀吉の九州征伐で降伏した。


参考資料
『醍醐の花見』(楠戸義昭著 祥伝社)
『花見と桜』(白幡洋三郎著 八坂書房)
『ものと人間の文化史 桜Ⅰ』(有岡利幸著 法政大学出版局)
『花鳥風月の日本史』(高橋千瞼破著 黙出版)
『前田利家十五カ条の訓え』(戸部新十郎著 青春出版)
『櫻史』(山田孝雄著 講談社学術文庫)
『江戸の花見』(小野佐和子著 築地書館)
『日本の女性風俗史』(切畑健著 京都書院)




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