笑う目玉に感謝する

目玉は脳の一部らしい。
下腹部の玉は内蔵の一部らしい。
脳は頭蓋骨に守られて、内蔵は骨たちが頑張って守備している。

「目は口ほどに物を言う」と言われる。
残念だが目は喋らない。
だから「口ほどに物を言う」はずがない。

しかし、私は「比喩」であることを理解した上で言っている。口だけではなく目が、しかも左右の目が喋りだしたら五月蝿いであろう。

更に最も大切な臓器が四ヶ所も外部に露出しているのは余りにも無防備ではないか。

目から相手の精神状態を読み取ることはある。それでも目玉自体が変形するわけではない。

目をむいて「怒り」を表す。この「目をむく」のも「目がむく」わけではない。そもそも「むく」が謎である。
目がすわるのも「目が座る」だとすると、目が椅子かベンチにでも腰掛けているのだろうか。

おそらく目玉ではなく「目」が使われていることに謎を解く鍵がありそうだ。

私は巫山戯ているわけではないが、巫山戯ていないとも言えない気がしてきた。

何が言いたいのかというと、言葉は言葉として現実から「独立」しているということだ。

言葉も、言葉の連なりである文章も、出来事や状況を言語化しているわけではない。記録のためでも、伝達のためでもなく、文章と現実とは無関係なのではないか。
無関係と言い切りたくなるが、言い切れない。

でも、ヴィトゲンシュタインが『論理哲学論考』で哲学の問題を全て解決したからと隠居生活に移行しながらも『探究』に纏められた言語ゲーム論に転回したのは「言葉は言葉」で現実とは無関係であることに関係がありそうな気がしている。

言語自体が隠喩だと思う。