障害者アスリートについて考える

障害者アスリートの意義

今日、障害者アスリートという言葉や障害者アスリート雇用という言葉を前よりも目にするようになりました。

パラリンピックの注目度向上や障害者の法定雇用率がもたらしている、または、その分野の世界トップクラスの人たちの恩恵からくるものと推測します。

この恩恵や制度におんぶに抱っこ状態なのが、聴覚障害者の大多数です。
聴覚障害者において、トップアスリート、アスリートと呼べるような人たちは私が知る限りでは数人しかいません。

優遇される目先の障害者アスリート雇用と呼ばれる雇用形態を利用し、どっぷりと恩恵につかっている人たちも間違いなくいます。

ここで恩恵につかっているというのは、聴覚障害者の世界一を目指す事だけを意識している人や雇用していただいたにもかかわらず、アスリートと呼べる生活を送っていない人を指します。
それ以前に、聴覚障害者で日本代表になっているという現状に甘え、常に限界に挑戦せず、自分の範囲内で活動するだけの甘えに甘えている人もいます。

現状を述べますと、聴覚障害者の中で専門とする競技においてプロやトップクラスのカテゴリーに所属する人はほとんどいません。
ましてや、カテゴリーの低いところの人の方が大多数です。誤解を恐れずに言いますと、アスリートが地域リーグ、ましてや社会人県1部以下にいるのはおかしい状態です。障害者アスリートの中で、これを理解していて現状を打破しようとしている人もいますし、何も考えていない人もいます。

一方で、仕事をしながら日本代表活動をしている人の中には、自分はアスリート雇用じゃないから、時間の融通が利かないなど、愚痴をこぼす人がいるのも聴覚障害者の現状です。
仕事をしながらでもアスリートと呼ばれる人たちは世界の中に沢山いると思いますし、日本代表選手である以上はそのようなことを口に出してはいけません。こういった自分本位の考え方や競技姿勢も大いに改善の余地があると思います。

このような背景から、障害者アスリート雇用に従事している人は、自分の社会的意義を見出し、その分野の先駆者になることを渇望し、より良い未来の形成の一端を担う必要があると私は思います。

障害者アスリートこそが、障害者でない人たちと障害者の架け橋となり得るのです。
そういった立場にありながら、障害者の中のアスリートとして毎日を過ごすのは、やはり違うと思います。狭義の中のアスリートには決してなってはいけないです。そのような人たちが多くなることで、社会的なコミュニティも凄く狭く、小さいものとなってしまいます。
自分だけのことを考えて、ひたすら結果を追求するのも非常に素晴らしい道で、結果的に周辺環境にも恩恵をもたらすかもしれません。ですが、この素晴らしい雇用形態に従事している人は自分が所属する競技レベルを一段階とは言わず、何段階もステップアップさせるべく、競技のこととともに周辺環境のことも考えて、動いて、動きまくるべきだと思います。

私も至らないところが大いにありますが、これからの聴覚障害者の周辺環境や障害者の環境をより良くする為に鼻息荒く行動していきます。

障害者アスリートから、アスリートになれるように。



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#上井一輝のスーパー膝神への道

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