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美味しいが渋滞中

 美味しいとはもう単純に食べ物の美味しいだけを指す言葉ではなくなった。最近つとにそう感じます。いろんな美味しいがあってもいい。そんな考えも分からなくはない。


 ただそれは純粋に味の評価ではないよね。もっと別のもの込みでのおいしい。そこを過度に前面に出されると、うんざりする事も事実。単純に味で勝負できないから、多くの付加価値をくっつけているようにも見えるんです。


 そうなってくるとストイックに味で勝負している人に失礼な気がして、最近軽々しく美味しいって言えないな。気の合う人と食べて美味しい。もちろんそれも美味しいなんだけれど、それは人から起因するもの。環境的な要因が大きい気がします。


 既に料理そのものからは、とうに離れてしまっている。多分同じメンツで食べたら、別のお店で食べても美味しい。人の感じる美味しいは、もっと広義にとらえた方がよろしいのかしら?


 それと自分が作らなくていいから美味しく感じる。心理的な側面もありそう。他にも美味しいと評判の店だから美味しいと思い込むなど。一種の暗示でしょうか。もうSNS発祥のビジネスはそちらが主流でしょうね。


 とりあえず「美味しいとか美味しくないとか関係なくて、これは美味しいんです!」という事になっている。自分の美味しいは自分で決めたい。なんて思う事もある訳です。


 田中小実昌さんの本の中で「言葉を食べちゃいけないよ」という一節があるのですが、多分同じような意味で使われていた。言葉を食べるという表現は、とても文学的。私たちは言葉を食べて、おいしいと思い込んでいるだけかも。食べ物を食べるに飽き足らず、言葉そのものを食べ始めたって皮肉。


 このごろの私たちはどうも言葉を食べているようで、言葉に食べられている。消費しているようで、消費させられている。とても本末転倒な感じ。そのことに気づいてから、私は「美味しい」をあまり使えなくなりました。


 

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