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先生が先生になれない世の中で(21)遊びのないところから新しい世界は生まれない

鈴木大裕(教育研究者・土佐町議会議員)

たとえば私が馬で村を駆けぬけるとする。たぶん早くは行けるだろう。だがもし、私がぶらぶら歩いて行くとすると、いろんなものも見物できるし、友達も私に声をかけて、家の中へ呼んでくれるだろう。目的地に早く着くことが、たいした得になるわけではない。得とは、そんなものではない。パパラギは、いつでも早く着くことだけを考えている。彼らの機械の大部分は、目的地に早く着くことだけがねらいである。早く着けば、また新しい目的がパパラギを呼ぶ。こうしてパパラギは、一生、休みなしに駆け抜け続ける。ぶらぶら歩き、さまよう楽しみを、私たちを迎えてくれる、しかも思いがけない目標に出会う喜びを、彼らはすっかり忘れてしまった。

『パパラギ――はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集』より

昔、サモアの島々に住んでいた原住民は、ある日突然やって来たヨーロッパの白人たちをパパラギと呼んだ。この本が最初に出版されたのは1920年。実に1世紀以上も前であるにもかかわらず、まるで今日を生きる私たちに語りかけているようだ。大人たちは、少しでも時間を節約しようと、一日にいくつもの用事をつめこむ。移動の際には高速道路を使い、快速電車に飛び乗り、景色などには脇目もふれずに目的地へとひた走る。時間を節約できたら、また新たな用事をねじこむ。そうして季節の移り変わりを愛でることも、心のおもむくままにフラっと寄り道したり、友との会話を楽しむこともなく、あっという間に一日一日が過ぎていくのだ。

あなたは人生を楽しんでいますか?

そんな問いかけに立ち止まることもなく、「忙しい忙しい」と時間節約の無限ループから逃れることのできない現代人。ミヒャエル・エンデは言う。「時間をはかるにはカレンダーや時計がありますが、はかってみたところであまり意味はありません。というのは、だれでも知っているとおり、その時間にどんなことがあったによって、わずか1時間でも永遠の長さに感じられることもあれば、ほんの一瞬と思えることもあるからです。なぜなら時間とは、生きるということ、そのものだからです。そして人のいのちは心を住みかとしているからです(*1)。」

私たちは子どもに問う前に、まずは自分自身に問わなければならない。私たちは今を生きているか? 大人ができていないのに、どうして子どもにそれを求めることができよう。

「遊び」の反対は「死」なのではないか。そう言うのは、作家の小野正嗣だ(*2)。どういうことだろうか。ナチスによる絶滅収容所で、ガス室に向かう人々の列の中でも、子どもたちは遊ぼうとしていた。それを見たまわりの大人たちは、落ちている棒や布切れで人形などを作って、必死に遊ばせてやろうとした……。小野は、そんな生存者の証言に注目し、遊びと想像力、そして人間の生との深い関係を指摘している。死を覚悟した大人たちの暗く、重い行進の中でも、想像することをやめず、遊ぼうとする子どもたち。それでも生きようとする子どもたちの命の力こそが、まわりの大人たちに人間としての尊厳を取り戻させる、かすかな光だったのではないだろうか。

小野は、機械が安全に作動するために接合部に残されたゆとりや隙間を「遊び」と呼ぶことにも着目し、「人間の遊びもまた、人間が人間らしく生きるための安全装置」(p.31)なのだと言う。だから未曾有の自然災害など、「『想像を絶する』事態には、遊びは存在しえません。人から想像力を奪おうとする世界には、遊びの場所はありません。それは死の世界なのです。だからこそ、人は想像しなければなりません。」(p.32)

小野が、「文学も人が生きていくために必要な隙間、『遊び』を作り出します」(p.32)と言うように、マキシン・グリーンは芸術が生み出す余白に注目する。「(芸術)は時に、私たちが他の存在のしかたを想像し、それを実現することの意味を考えられる空間へと私たちを動かす」、そして「芸術が私たちに与える気づきの衝撃は、日常にどっぷり浸からずに、探索し、問いかけるよう私たちを駆り立てるのです(*3)。」だから必要なのは、生活の中に余白を、「遊び」をつくっていくこと。そして、それを可視化してアクセスしやすいようにすることで、既存の世界に満足しない人々が、「現実」と未だ実現にいたっていない目指すべき世界を想像しうる空間とを自由に行き交うようにすることだ。

今日の社会の閉塞感と息苦しさは、私たちの生活に「遊び」がないからではないだろうか。生活に遊びがないからこそ、人間らしく生きるという当たり前のことが、競争的な格差社会に適応することに負けてしまう。既存の社会を問うことも、新しい社会を想像することもできないのだ。遊びのないところから、新しい世界は生まれない。

【*1】ミヒャエル・エンデ(2005)『モモ』岩波少年文庫、83ページ。
【*2】小野正嗣「講演 読む・書く・学ぶ」『すばる』2015年10月号。
【*3】Greene, Maxine. (1995). Releasing the imagination. Jossey-Bass. p.135.


鈴木大裕(すずき・だいゆう)教育研究者/町会議員として、高知県土佐町で教育を通した町おこしに取り組んでいる。16歳で米国に留学。修士号取得後に帰国、公立中で6年半教える。後にフルブライト奨学生としてニューヨークの大学院博士課程へ。著書に『崩壊するアメリカの公教育――日本への警告』(岩波書店)。Twitter:@daiyusuzuki

*この記事は、月刊『クレスコ』2022年5月号からの転載記事です。


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