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「差別」を解き明かす道しるべとなる本〜せめて解決に向けた一里塚を示す水先案内人でありたい

神谷悠一(LGBT法連合会事務局長、共著『LGBTとハラスメント』集英社新書)
差別はたいてい悪意のない人がする』(キム・ジヘ著)について様々な分野の方にエッセイを寄せていただく連載企画。今回はLGBT法連合会事務局長として様々な啓発活動に携わる神谷悠一さんの寄稿です。

 本書『差別はたいてい悪意のない人がする』は、その書名、また原書名(『善良な差別主義者』)の通り、多くの人が思っているイメージに反して、悪意のない、善意の人こそが差別をしがちであるということを、さまざまなケースに触れながら平易な言葉で著した名著だ。実際に私自身が感じてきたこと、近頃感じていること、考えていたことの答えが、そこかしこに散りばめられており、差別をめぐるさまざまな「もやもや」を解消してくれる本であるとも言えよう。
 ここで、本書に関連して、いくつかのエピソードやトピックを紹介していきたい。

「善意のアウティング」と多数者の無自覚

 まず、いわゆる「アウティング」(本人の性のあり方を同意なく第三者に暴露してしまうこと)をめぐる言説や課題について、本書の記述から解き明かせる部分が多いのではないだろうか。
 私の著書(『LGBTとハラスメント』集英社新書)では「善意のアウティング」について解説している。たとえば、職場で性的マイノリティであることを上司に伝えると、「あの人を守らなきゃ」という善意から、本人の許諾なく性的マイノリティであることを人事部長などに暴露してしまう。こうした例は本書のテーマそのものに関わる事例であり、「悪意がない」どころか「善意」が差別や偏見による被害を引き起こすこともあるという典型といえる。
 また本書では、マイノリティとマジョリティの非対称性、そしてマジョリティが日常的かつ自然な「特権」を持っていることが丁寧に解説されているが、性的マイノリティの文脈では、これがアウティングという事態を引き起こす要因になっている。そもそも、アウティングがどういう被害なのかがマジョリティからは分かりづらい、といったことは、自らの性的指向や性自認を明らかにできること自体が「特権」であることへの無自覚が引き起こしているといえる。
 たまに、アウティングに対する(法や条例による)規制に関連して「バランスを欠く」という批判がなされることがあるが、これも「特権」や非対称性への無自覚ゆえに生じるものではないだろうか。一橋大学の事件経済産業省の事件の裁判例でも、この点が十分吟味されていたのか疑いたくなるものが散見される。

 アウティングの話をすると「じゃあカミングアウトしなければいい」などとも言われるが、これもまた、「公」の場にマイノリティは出てこないでほしいという、本書で解説されている事象であろう。

“ほんとうは、公的な場で起こる差別の大部分は、個人の私的な特性からはじまる。それゆえ「なぜ私的な特性を公的な場でさらけ出すのか」という質問は道理に合わない。実際には、特定の私的特性のみが(たとえば男性、成人、異性愛者)受け入れられ特定の私的特性は(たとえば女性、子ども、同性愛者)公の場でさらけ出すものではないという理由で拒否されるのだ。”(本書151頁「公共空間の入場資格」)

マイノリティへの恐怖と「弱者の連帯」の困難

 もうひとつ、本書のエピソードに類似する最近の経験を挙げよう。私の講演での質疑応答の際、シスジェンダー女性からの質問に対して、性的マイノリティ、特にトランスジェンダー女性の受ける差別や困難を説明する機会があった。私は、量的データやエピソードなども交えながら、できるだけ丁寧に解説しようとした。しかし聴衆の中には、そのデータやエピソードが深刻であればあるほど、マイノリティに対する不安を募らせているように見受けられる人がいた。
 何人かの話を聞くに、当事者の困難が深ければ深いほど、それはシスジェンダー女性に対する「脅威」の裏付けに思えたようだ。実態がつかめないが故に、未知なる危険があるのではないか、あるいはシスジェンダー女性への公的予算や施策が後回しにされるのではないか……といった理由のようだった。まるで、性的マイノリティの困難の度合いが深ければ深いほど、その分「シスジェンダーの女性」がより追い込まれたり、損をしたり、被害を受けたりするのではないかと、マイノリティへの未知なる不安とも相まって、恐怖を深めていたようすだった。
 これは、以下の本書の一節と重なると考えられる。

“(韓国で)イエメン難民の受け入れに反対した人々が挙げたおもな理由のひとつは、「女性に対する性犯罪の可能性が高い」ということだった。多くの女性が、性犯罪への恐怖に共感しているようだった。(…)多くの女性は、ムスリムという言葉から連想する性差別的で暴力的な男性像と、その潜在的被害者である女性という構図から、この状況を眺めて判断をした。このような構図の中では女性は依然として被害者であり弱者だった。難民受け入れ反対は、女性がみずからを守るための正当な要求だったのだ。そこに弱者と弱者の連帯はなく、女性たちは、難民よりも女性のほうが弱者だと主張した。”(本書44頁、「弱者と弱者、連帯の失敗」)

 一部のシスジェンダー女性とトランスジェンダー女性をめぐるようにも見える、この一連の動きは、本書の描き出す「弱者と弱者の連帯の失敗」と重なる状況ではないだろうか。彼女たちには、私の説明は、本書で言うところの「私は苦しいけれど、あなたは楽だよね」と聞こえたということかもしれない。

「より苦しいのはどちらか」の対立を超えるために

 インターネット上では、今なお「トランスジェンダー女性」へのヘイトとも言える言動が広がっている。そうした言説の中で言及される、恐怖や不安を煽るような事例は、実際には起こり得ないものであると、性暴力被害者支援の専門家や弁護士が考え方や整理を示してきているが、不安は今なお一定の領域で広まり続けている。
 つまり、片方の困難を説明するメッセージだけでは、「私は苦しいけれど、あなたは楽だよね」と受け止められ、それでは「不安」は解消されないのだろう。共通する「ジェンダー規範」に関する課題なのだという認識の下、本書にある通り「あなたと私を苦しめる、この不平等について話し合おう」というメッセージが必要なのだ。シスジェンダー女性もトランスジェンダー女性も、既存のジェンダー規範によって困難を抱えざるを得ない状況なのであるから。これは私にとって、改めての大きな学びであった。


 このように、さまざまな差別をめぐる事象が、本書を通じて改めて解き明かされ、説明しやすくなる。
 ただ一方では、「では私たちはどうすればいいのか」という疑問も方々から飛んでくることになるだろう。マクロのレベルでは、本書で言われるような包括的差別禁止法の必要性が示唆される。ただ、それもあくまでスタートラインに過ぎず、著者が言うように、すべての複合し交差する差別を、ただちになくすのは不可能ともいえる。多くの人にとってその状況は、茫漠とした砂漠に放り出され、途方にくれる感覚をもたらすかもしれない。
 実際に、性的マイノリティのカミングアウトやアウティングをめぐって、日常の会話にすら不都合や困難が生じることを、ワークやロールプレイを交えて解説すると、その深刻さを多くの人が受け止めつつも、「こんなに大変な問題には手をつけづらい」という反応が返ってくることもある。
 そんなとき、私たちのような「活動家」と言われる人びとは、せめて一里塚となり得る標を照らし、その水先案内人になることこそが仕事の一環なのだ。本書を通じて、私もそのように思いを新たにした。差別があるという実態を世に知らしめると同時に、マクロからミクロにわたって、少しでもより良い状況に向けたどのような方途があるのかを、できるだけ示していくことができればと改めて思う。
 また、一人の人間として、たとえ人権に関わる仕事に携わっているといえども、自身が差別することも、それに加担することも十分にあり得ると自覚したい。ジェンダーに関する認識のメカニズムに代表されるように、自分が物事を頭の中で無意識にカテゴライズしていることに自覚的になり、その誤りを指摘された際にこそ、再分類を厭わずに行い続けられるよう、自分自身に課していくしかないのだ。本書を通じて、そのような決意を新たにした。



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