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死にゆくミミズを見て、念仏を学びたくなった話。

4月に、ビルばかりの街から緑豊かな東京の隅っこに家族の拠点を移した。

家からすぐのところに、巨大な公園や、心地よい緑道があって、歩いているだけで気持ちがいい。
畑の横にある直売所で朝採り野菜を買うのも楽しくて、2月に産まれた長女をベビーカーに乗せて、あちこち一緒に散歩するのが日課になった。

歩いていると、よくミミズに遭遇する。
土の住人であろうに、何をどう間違ったのか、畑や雑木林と接したアスファルトにひょっこり出てきて、佇んでいるのである。

こちとら、小さな命を必死にこの世に産み落としたばかりの身なので、危険しかないアスファルトの上で生き惑っているミミズを見かけると、胸が苦しい。
「早く…!命があるうちに、早く柔らかい土の世界に戻って…!!」と、強く念じずにはいられない。

この夏は、幾度となく干からびたミミズを目にした。灼熱のアスファルトに、文字通り身を焦がす彼らを、散歩するたびに見た。
愛おしい我が子の寝顔を見ながら、頬にあたる風を感じ、青々とした木々や、都心では見かけなかった綺麗な鳥を目で楽しみ、清々しい気持ちで歩いている道々に、いるのだ。臨命終時のミミズたちが。

死にゆくミミズを見たって、「そういうもの」として処理して記憶にさえ残らない人生だった。
それなのに、今はどうにも彼らの死が身近に感じる。

生命の象徴をベビーカーに乗せた散歩の途中だからか、豊かな自然の大らかさに抱かれているせいか、ミミズの死に、慈しみをもってほんの少し向き合おうとしている自分がいるのである。

とはいえ、いちいちベビーカーを止めて、ミミズに手を合わせるわけにはいかない。
誰にも聞こえないぐらいの声で、「南無阿弥陀仏…」と呟くぐらいがいいのでは?と思ってちょっとやってみたら、これが案外、良かった。

たとえ虫であっても、唐突に死を突きつけられると、やはり心が少し波立つものだ。その、ほんの少しの戸惑いと切なさを、慈悲をもって葬うと、素通りするより心の収まりが良い。

なんとなく漠然と、儀式として念仏を採用してみたわけだけど、特に仏教に通じているわけでもないので、念仏のことって実は全然わかっていない。
そもそも、「南無阿弥陀仏」もきちんと解説できない。「南無」ってなに…。


ウィキペディア召喚。

「南無」はナモー(namo)の音写語で「礼拝、おじぎ、あいさつ」を意味するナマス(namas)の連声による変化形。「礼拝」から転じて帰依(śaraṇagamana)を表明する意味に用いられ、「わたくしは帰依します」と解釈される。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

・・・つまり?

ちなみに、Oxford Languagesでちょちょっと調べて見ると、「南無」は“絶対的な信仰を表すために唱える語”とある。

絶対的な信仰…。気軽に口にしがちな言葉な割に結構ヘビーなやつだった。南無+阿弥陀如来だけじゃなくて、たくさんバリエーションがあるのだな。


ふと頭に浮かんだり、知識として断片を記憶しているものの浅さに驚愕し、興奮し続けている。ずっとそんなふうに生ている気がする。

世の中知らないことばっかり。いろんなことを知りたくて知りたくて、世の中のいろんなことに触れて広げて、その先の広さに絶望して、そしてその広がりを思うととても嬉しい。

念仏ひとつとっても、この有様だけど、断片があること、増やすことには、希望もあるわけで、人生一歩ずつ進んでいくしかない。


仏教のこと、息子たちの鬼滅ブームに乗じてうっかり読んだのだけれど、この本がとっつきやすくて面白かったです。


ミミズたちよ、安らかにお眠り。



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