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「輝」

セピア色になった思い出の写真を見ているのに。私の記憶の方が妙に鮮やかな世界となって残っている一瞬があります。それは、蒼色。蒼の世界が私の記憶のどこかにあって。その蒼の世界には故郷のように還っていけるけど。なぜかどうやって還るのかは行き当たりばったりなのが面白いところ。時間の経過が何もかもを酸化させてしまうわけではないのですね。

「ちょっと、贅沢してみない?」友人が誘ってくれたのは箱根宮ノ下にある富士屋ホテルでした。確かに、二十歳になったばかりの私たちには確かにね。でも、いつもと違う贅沢が必要な気がしたのです。間髪入れずに「ちょっと、そんな気分」。今から思えばささやかな異空間を味わうべく箱根で二泊を過ごしました。

富士屋ホテルは海外からのお客様の為のサービスがあらゆる箇所に用意されていました。なかでも、メインダイニングの椅子が海外用の設定だったのだと思いますが。小柄な私には足がブランコのように揺れてしまいソワソワしていたら。すかさず友人に「落ち着きなさいよ」とブランコを注意されました。地に足がつかないとはこのことかと納得したものです。

窓に組み込まれたステンドグラスはきっと季節の加減で色の強弱が違うのだろうな。昼下がりの廊下には夏の光が色を落として揺れていました。視線を感じた先には。ポスターや雑詩でおなじみの顔が額に入って飾られていました。ジョンレノン、チャップリンそしてヘレンケラー。彼らの活躍を知らない人はそうそういないだろうな。なかでもヘレンケラーの前で私は足を止めていました。彼女もあのブランコの椅子に腰かけて食事をしたのだろうか。小柄な印象ではないからブランコの心配はなさそうです。

蒼い記憶に眠っていた額のなかのヘレンケラーを思い出すきっかけとなったのはある動画を見つけたことからでした。NHKで放送されたものをだいぶ後になって動画で知ったのだと思います。ヘレンケラーの自伝的な物語が1時間にわたって描かれていたのですが。そこには私の知らないヘレンケラーがいました。

アン・サリバン先生に出逢うことで指文字にも出逢うこととなったヘレンケラーに言葉の神秘が啓かれていきました。水を言葉で捉えた瞬間を魂の誕生日と表現しています。彼女の苦悩は信仰と離れることが無かったようです。信仰が苦難をやわらげ苦難が信仰を深めていく人生の途中で。

信仰心を突き抜けるような経験をしました。その経験は霊の概念を実感できる「霊魂は時と場所の制約を受けない」という新しい意識に触れたことでした。

「霊魂は時と場所の制約を受けない」。

新しい意識は地球での肉体の苦痛を消してしまう魔法では無かったと思います。むしろこの人生で肉体の制約を味わい尽くすことであり。自分自身の制約が押し付けられたものとしてではない。もっと命とは自発的なものだと感じたのではないだろうか。

動画「輝ける魂」ではヘレンケラーが肉体を超えた感覚をことばにしています。「ハドソン川はキラリと輝く刀身のよう」「マンハッタン島は七色の水面に浮かぶ宝石のようだ」。これらのことばは視力が認識した世界を超えてヘレンケラーが想像し感じていた世界です。その世界をことばにする行為は人類が持つ神秘の領域の進化への勇気ある挑戦だったと思います。


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