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命、ギガ長スzzz、私の挑戦

命、ギガ長スという作品と共に歩んだ1年。
松尾スズキという人物に出会い、触れ、対話した1年。
なんとも貴重な機会だ。と大人は言う。
でもきっと私は小屋入り前を迎えた今も経験していることの貴重さを分かっていないし、本当に理解するのは何年も先なのだと思う。

「松尾スズキ・リアルワーク・プロジェクト」

私は京都芸術大学 文芸表現学科の1回生である。
2024年2月25日に春秋座で行われる演劇「命、ギガ長スzzz」は、本学で行われている社会実装プロジェクトの一つで、今年度から新たに始まった「松尾スズキ・リアルワーク・プロジェクト」の発表公演だ。

昨年4月大学生活に大きな希望を抱いていた私は、このプロジェクトを知ったときに直感で参加するしかないと思った。あの頃、正直松尾スズキについて知っていることは何1つなかった。ただ社会実装プロジェクトの説明会の一番最後に、スマホで撮影されたドアップのおじさんの縦動画が流れたときに受けたインパクトはとても大きかった。

「このおじさん、自分と全然ちゃう感性もってはるんやろうな」

湧き出た強烈な好奇心をもって、説明会後林さん(安藤さんもいたっけ……?)に話を聞きに行って、そこからとんとん拍子。よく受かったなと今では思うが、そのときは自信の塊だったから、無知は恥だが、大きな仕事をすることもあるものだ。

「このチームで1年間頑張ることを約束してくれますか」

初めに松尾さんは私たちにこの言葉を投げかけた。希望に満ち溢れた大学1年生だった私は「そんなの当たり前じゃないか! まかせろ!」くらいの気合いだった。本当に軽く、息を吸うように思った。これから待つ、自分や仲間との戦いのことは全く予想もしていなかった。

演技は考えること。そして、アウトプットは身体表現。

幼いころから好奇心と根拠のない自信は持っていたが、どうも体を使うことだけは苦手だった。できるようになるまでに時間がかかりすぎるため、習得するまでの間に自信をなくすことはおろか、自分のことを嫌いになってしまう。小学校の運動会でのダンスの練習で先生や同級生に長時間教えてもらっても、なかなか覚えられなかったことは軽いトラウマだ。本番に周りを見ながら踊ってワンテンポ遅れているのに体を大きく動かして頑張っている姿がビデオに残っているけれど、家族に笑われたことが思い出されて見返せない。頑張った成果が自分で見るのが辛い姿ならば、頑張らない方がいい。できると思えばなんでもできる、が座右の銘だが、唯一できるとも思えないことが体を使うことだった。

35年ほど芝居をやってきましたが、初めて大学の学生たちと演劇を作りました。演劇を学んでいるものもいれば、文芸、映画、デザインを専攻しているものまで舞台にあげてしまいます。だから言ってしまえば純然たる素人と芝居を作ろうというのです。素人でもありZ世代でもある彼ら。初めはあまりの共通言語のなさに、戸惑い、あまりの体の弱さに心配し・・・気がつけば、東京に帰っても延々彼らのことを考え続けているのです。彼らがどうすればこの1年で「なにかをへて」「なにかをえて」くれるのか、ああだこうだと思い、試行錯誤の日々でした。正直、苦しかった。それでも、思えば自分もデザイン学科の身ながら、大学時代演劇に出会い、そのおもしろさにのめりこみ、今があるわけです。 ズブの素人でした。そう思えば、なにやら彼らが愛おしく、演劇のとてつもない魅力を少しでも感じてもらやあいいじゃないかと開き直り、なんとかここまで漕ぎ着けました。自分が彼らを成長させられたのか、彼らが自分を成長させてくれたのか。それは、きっとおいおいこの先、わかってくるのだと思います。

「命、ギガ長スzzz」 松尾スズキ コメント

このプロジェクトでは全員が舞台に上がる。何を専攻していようが関係ない。私は文芸の人間だが、例外なく役をもらっている。もらったときは何も思っていなかったが、これは私にとっての苦しい挑戦となった。

授業が終わり2月に入ってから、本格的に稽古が始まってからのことである。稽古場では演技に対して日々ダメ出し、分かりやすくいうとアドバイスのようなもの、をもらう。役について自分なりに消化して、演出家や仲間に見せる。そこではよく「笑い」が起きる。それは「おお、おもしろいじゃん」の笑いだったり、「なんかおかしいな、動き」の笑いであったり、「間違えたな、今!!笑」の笑いだったり、様々な種類がある。

ダメ出しはすべてアドバイスで、もっと作品をよくするために、仲間同士で出し合うものだ。頭ではそう理解していても、私は自分が演技をしたときに起こる笑いが怖かった。どんな種類の笑いなのか、分からないことが怖かった。「こうしたらいいんじゃないかな」と言われて、その場で改善できるほどの器用さを持っていなかったし、伝える言葉も持っていないときは、どうすればいいのか分からなくなった。

そんな中で「それもおもしろいから、いいんじゃない」という言葉を素直に受け取ることは難しい。自分の表現が求められているものではないことが分かっていて、それもおもしろいと肯定されても信じられなくて、闇のループを繰り返していた。

普段はアドバイスをもらうと嬉しいし、どんなにひどいことを言われても割と平気なほうだ。例えば、書いた脚本が面白くないといわれても、何が面白くなかったのかを考えるのが楽しい。おもしろかったと褒めてもらえると、自信がなかったものにも自信がつく。そういう当たり前にできていることが演技に置き換えると、どうしてもできなかった。

アトラクションのような観劇体験

演技と向き合うことから逃げ回っていたころ、体力に限界がきて体調を崩し、稽古を休んだ日、久しぶりに長いことベッドにいると、ふと最初に松尾さんたちが演じた初演映像をはじめてみたときのことを思い出した。

今まで私が見てきた劇は、感動するものばかりだった。誰かの人生をのぞいて、それから何かを得られて、観劇後にテキストベースでメッセージが浮かんでくるような体験が好きで、舞台に憧れていた。

けれど「命、ギガ長ス」は全く違った。

一言でいうとアトラクション。ただひたすらに笑いが止まらない。夢中になっている。その過程の中で、見ているうちに世界観に巻き込まれて、自分も世界の一部になっている? 他人事ではなく、いつのまにか自分事になっている? どう表現したら伝わるのか分からないけれど、とにかく今までにない体験だった。戯曲でも面白かった。いい物語だと思った。でも文字で見たときの何倍も面白かった。映像なのにここまで楽しめるんだったら、その場にいたらどんな体験があるんだろう。

これが声や音、体を使って表現するということなんだろうか。

私は初めて初演映像を見たときに、笑いと演劇の力を肌で感じたんだった。そして、この作品に出会えたことと、今から自分たちの力で作り上げられることを嬉しく思った。その気持ちでこの1年を走っていた。

笑いとはなにか。正直、長い時間をかけても分からないのだと思う。きっと私は笑いの人間ではない。でも、楽しいと思える心はあるし、楽しませたい気持ちは人一倍ある。

稽古場で私が演じたときに起きる笑いもすべて、笑いであることには変わりはない。それをその人だけではなく、この稽古場だけではなく、劇場全体に通じるものに昇華していくことが、役者で、最後の私の役割だなと今は思っている。

座組は一期一会。

2月の初め、母に言われた「あんたも舞台終わって最後礼するときに泣くみたいなことあるんかな」と言われたとき、「正直、なんとも言えんけど、泣く自信ないな」と答えた私は、まだ渦の中にいて暗闇を見ていた。夢から覚めなければ、現実と向き合わぬままずっと1人で居られれば、なんて思ったこともあった。光を見せたのも、闇に引きずり込んだのも、また光を見せたのも、この劇なのだから、面白い。

「このチームで1年間頑張ることを約束してくれますか」

松尾さんが初めにかけてくれた言葉。気づかない間に1人で抱え込んでしまっていたから、残り1週間はもっと仲間と触れ合って行きたい。終わりが近づいて初めて、今まで過ごしていた贅沢な時間を振り返り、進む時間を惜しんでいる。

座組は一期一会。
さぁ、本番私たちはどんな景色を見られるのか。私はまだ知らない。

私が初めにこの劇を見たときに感じた「アトラクションのような観劇体験」を、あなたに届けたい。もしこの記事を読んでくれた方で、25日に京都に来られる方がいたら、楽しむために、舞台へ来て欲しい。待っています。

よし、行ってきます!

2024.2.18 八上心寧


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