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紀行「霊場恐山」①(地獄、極楽、イタコ編)

・僕は一般的にぼんやりと周知されているような死後の世界や幽霊のことを、これっぽっちも信じていない。しかし、人が死者を思うことそれ自体には強い興味があり、自分のそれも含めて美しいものだと思っている。そんな僕が恐山に行ってきた記録を残しておく。


・はじめに断っておきたいのは、いくら「霊場」とはいえ、恐山には観光地の側面もあるということだ。ツアーバスからぞろぞろと降りてきてゲラゲラ笑いながら見て回るおばさん達もいれば、沈痛な面持ちで水子供養のお地蔵様に手を掌わせる人もいた。僕はどちらのスタンスも正しいと思っていて、観光客がお金を使ってくれなければ、巨大な霊場を維持するのは難しいだろうと思うからだ。そうなれば死者を悼む人も訪れることができなくなる。


・つまり僕が言いたいのは、実際に恐山に行ってみて非常に満足したので、これを読んで足を運ぶ人が少しでも増えたら嬉しいということだ。写真をたくさん載せるけれど、必要以上に怖がったり、あるいは怒ったりしないでほしい。なるべく魅力を伝えられるように頑張ります。


・それでは始めます。






恐山へ続く道


・「はまなすライン」を通り恐山に向かっていた。海の見える広場があったので停車して少しの間休憩する。波も海風も穏やかで気持ちがよかった。海の向こうに対岸が見えるのが物珍しくて、知らない場所に立っていることを改めて実感し嬉しくなった。ふと、あれってもしかして…と思いグーグルマップで確認してみる。


・やっぱりそうだった。対岸に見える山こそが恐山だ。上空には薄い雲が広がっていて、その下方、低く立体的な雲が恐山を覆い隠すように腰を下ろしているのが写真からわかると思う。不自然に隠された恐山、今からあそこに行くのだな思うと感慨深い。



・いよいよ道路標識にも恐山の文字が。「むつ」「恐山」という言葉は僕にとって、中つ国やダイアゴン横丁なんかと同じ並びにあり、つまりフィクションの中の地名に過ぎなかった。どこにでもある道路標識にそんな地名を発見し、まるでお話の中に迷い込んだような気分になった。


・『シャーマンキング』の中では葉とアンナが出会う重要な土地だったり、『がんばれゴエモン ネオ桃山幕府のおどり』という64のゲームでは、寿司の足場をぴょんぴょん飛び移ったり、ラーメンスープの中を泳いだりできる場所だ。KONAMIの誰かが思いついて実装したそのイメージは狂いすぎている。





・いよいよ山道に入るとやはり雨が降っていて、遠くから眺めたあの雲の塊の中に自分がいるのだということを認識する。狭くてくねくねした道を登っていると、道に沿って点在するお地蔵様が姿を現す。この辺りから、車の中にいても鼻をつまみたくなるような硫黄の臭気が辺りに充満していて、異界に足を踏み入れてしまった…やっぱりヤバいところに来てしまったんじゃないかという焦り、そして静かな興奮を覚えて体を強張らせる。



入山:地獄と極楽





・山道を抜け、視界がひらけてすぐ、三途の川にかかる赤い橋が出迎えてくれた。有名なこの橋が、まだ恐山の山門をくぐってもいない序盤に現れたので面食らってしまう。三途の川にかかる橋なのでもちろん渡ることはできない。上の写真の背景が青空なのは、次の日帰るときに撮ったものだからだ。




・広い駐車場にはお土産屋さん(上)と食事処の蓮華庵(下)がある。観光地の雰囲気に心が和らいだのも束の間、



・入山料500円を支払い総門をくぐってすぐ、左手に灯籠の周りに積まれた石と風車の山があり戦慄する。風車がカラカラと回る音よりも、雨が傘にあたる音の方に集中しようと努めた。そうでもしないと、なんだか心を持っていかれてしまうような気がした。



・立派な山門の向こうに本堂が見える。本堂の中はふつう見ることができないけれど、僕はこのあと宿坊に泊まるので朝のお勤めの際に入ることができる。本堂に向かって左の道に沿っていくと、そこから地獄と極楽が併存する世界に立ち入ることができる。



・お地蔵様の前を通り、



・ふと下を見ても石が積まれている。



・母が映っているのを僕のスタンプで隠しているだけで、決してふざけているわけではないです。写真を見てもらえればわかるように、道沿いに夥しい量の石が積んである。道に沿ってというよりは、むしろ積まれていないところに道が出来たのかと思うくらい、どこを見ても石、石、石の山。



・丘を登った先にあるお堂。



・そこから見下ろした写真。


・ただただ絶句、言葉を飲み込むことしかできない。「一つ積んでは父のため」と、賽の河原では親よりも先に亡くなった子どもが石を積んでいるらしいが、逆に生者が石を積むことは死者への供養になるということだ。


・ここに積まれている石のぶんだけ死者がいて、彼らを思う生者の行き場のない思いが山となって可視化されている。無数の小さな石の数は訪れた人が悼む死者の数と一致するはずで、崩れたりもするだろうから、これでもほんの一握りなのだろう。


・積まれた石からそれぞれの死者個人のことを想像することはできない。言わば数字にしか過ぎないけれど、圧倒的な物量を目にして、肌で死者の実在を感じたのは初めてのことだった。そんなことを思ったとき、この世のものとは思えない異様な美しさ、畏怖の感情が僕を襲い足がすくんでしまった。


・この光景は人の手によってデザインされている。ただし意図的にではなく恣意的に、だ。手で石を積み、風車を供え、両の掌を合わせて死者のために祈る。毎日誰かがやってきて同じことをする。積み重なる思いの集合体が形を成したような光景は、人の心がそのまま写し取られているみたいで、だからこの異様な場所に立ったとき湧き上がる感情というのは、幽霊に対する恐怖ではなく、人に対する畏怖なのだ。


・写真からでは絶対に伝わらないけれど、常に立ち込めるかなり濃い硫黄の臭気も、いっそう恐山という場所の異質さを際立たせる。ショッキングな光景を目にして気分が悪いのか、それとも硫黄の臭いを嗅ぎすぎて具合いが悪いのか…自分の状態を冷静に見極めるのが難しくなり、現実味を欠いた浮遊感で足元がふわふわする。あの感じは一種のトランス状態なのだろうか。




・読んでいて疲れると思うので、ラーメンの写真でも見て一緒に休憩しましょう。


・横殴りの暴風雨で傘を差すのも難しい状況になったので、いったん蓮華庵まで戻ってお昼ごはん。お麩が入っているラーメンは初めて食べたけれど、どうやら青森では一般的らしい。スープが甘めで優しかった。もちろんここも硫黄の臭いで満たされているから具のゆで卵の味がわからなかった。食事を終えると雨が弱まっていたので、もう一度恐山の門をくぐった。



・無間地獄だ。この岩場のどこらへんに無間地獄の要素を感じればいいのかわからなかったけれど、恐山は観光地でもある。訪れた人にわかりやすい見どころを提示するのも大事なんだろう。


・同じノリでお手洗いも教えてくれる。


・硫黄が染み出したせいで極彩色になった地面がところどころにある。この近くに積まれた石の間からは蒸気が噴き出していて、常にカタカタ揺れていた。死者が地獄から助けを呼んでいるようなイメージが浮かんだ。


・茎が真っ黒になった植物。枯れているという感じではなく、濁った色水を懸命に吸い上げて染まってしまったのだろう。地獄の植物感。


・水子供養地蔵尊の前に積まれた石。写真の奥にちょっとだけ池が見える。お地蔵様が立つ池の周りをぐるりと風車が囲んでいるのだ。やはり他に比べて風車の数が多いし、このぬいぐるみはまだ新しいように見える。生々しさに心が重くなり、現実感を欠いてハイになっていた脳みそがいったんクールダウンした。




・血の池地獄にもトイレはあるらしい。この先に進むと




・木の枝に手ぬぐいや半纏がぶら下がっている。茂みに入っていきなりこの光景が目に飛び込んできたので怯んでしまい、思わず「うおお…」と声が漏れる。手ぬぐいは死者の旅路を案じてくくりつけられているらしい。吊るされている半纏は昼に見てもぎょっとするのだから、絶対に夜の茂みで出会いたくない。ここでびっくりしたせいで血の池地獄を探すのを忘れてしまった…。


・東日本大震災で亡くなった方々を供養するお地蔵様だ。後方には極楽浜、宇曽利(うそり)湖が見える。この写真にもちょっと映っているけれど



・裏手に回ると夥しい量の手形がついているのがわかる。いや…これはどういう…あまりに強烈なイメージを投影したビジュアルにショックを受ける。積まれた石の中には個人の名前が書かれた表札や名札があって、それもかなりきつくて涙が出そうになった。理不尽に奪い去られた命を思う、どうしようもない悲痛さが伝わって来るようだ。どうか安らかに眠って欲しいし、安らかに生きて欲しい。


・極楽浜だ。硫黄のせいなのか、水の色が何層かに分かれている。晴れの日にはもっと澄んでいてきれいなのだろう。海のように規則的に打ち寄せるのではなく、風が生み出す波の音は独特なリズムで気持ちがいい。地獄をひと通り見て回ったあとだから尚更、極楽浄土の片鱗を感じられるかもしれない。



・浜辺には風車の他に、お供物の生花なんかもあった。プレモルのふたは開いているけれど、まさか湖に流したのだろうか。それとも自分で飲んだのだろうか。それぞれの供養の形が垣間見える。



・展望台に登る。まったく、何の生物の気配も感じられないくらい白くなっている山肌が見え、これもまたこの世のものと思えない光景だと思う。もっと近くで見たいと思ったけれど、立ち入りは禁止されていた。



・展望台にはかわいい狛犬(?)がちょこんと座っていて癒やされた。これも硫黄のせいなのか、顔がごっそり削られのっぺりとしているけれど、その姿が独特でかわいい。


・正面からまじまじ眺めてみるとちょっと怖いかも。



・展望台を降りたところに巨大な岩があり、蒸気が噴き出していた。これもすごい光景だけれど、正直、もうへとへとになってしまっていたので早く車に戻りたくて仕方がなかった。もっと近づいて、噴出孔なんかをよく見ておけばよかった。



イタコの口寄せ

・2時間ほどかけて地獄と極楽を巡り、菩提寺の入り口まで戻った。ほんとうにもうへとへとだったのだけれど、母がどうしてもと言うのでイタコに会いに行くことになった。部屋がいくつかある小屋の前には「イタコの口寄せ」と書いてある青い看板が掲示されていて、それがイタコが来ているというサインらしい。イタコは恐山に住んではいないし常駐しているわけでもなく、大祭の期間中でなければ1人もいない日も多いらしい。だから僕らは運が良かったということになるだろう。


・ここから先の写真は1枚もない。小屋の内部は無理にしても、せめて外観の写真だけでも撮っておけばよかった。


・こんにちは、と恐る恐る小屋を覗きこむとイタコが快く迎えてくれた。8畳くらいの部屋の入口近く、端っこにちょこんと座るイタコは写真で見た通りの白い法衣を身にまとっていた。椅子が何脚か並んでいて、僕と父と母は遠慮がちに腰を下ろす。


・何年も前に亡くなった祖母を口寄せしてもらうことにして、イタコに命日を伝える。すると長い数珠を取り出して少しだけ擦ってみせてくれた。「鳴り終わったら降りて来てますよ」と告げられ、場に緊張が走るのを感じた。


・目を閉じて、経のような歌(たぶんあれは歌だと思う)を唱えながら体を揺らして数珠を擦り合わせるイタコの姿を1mも離れていない至近距離から見ている間、僕は呆気にとられて体を硬直させていた。何か、正しいことを思って正しい反応をしなければいけないというようなことを考えていて、それは文化人類学の授業でイタコを始めとするシャーマンについて学んだ経験があったからだ。


・シャーマンは霊界と交信したり死者の霊を降ろす時、意図的に自分をトランス状態に導くのだ。歌や踊りと酒、地域によっては幻覚を見せる植物なんかを媒介させ、強制的に自分を普通ではない状態にすることで人間がふだん感じることの出来ない感覚を呼び起こすのだ。


・そういう知識だけを持っていて、だから僕は降霊術のことを信じていなかったので、自分が何か失礼なことをしてしまわないかとか、そんなことに気を回していた。しかし実際に目の前でそれが行われていて、その姿には有無を言わせぬ迫力がある。僕の現実感は奪い去られ、体も思考も硬直してしまったのだった。


・歌と数珠の音が止み、いよいよイタコの体に降ろされた祖母が口を開いた。その瞬間に母が泣き出してしまう。父や母が祖母に語りかけ、祖母はうんうん頷きながら言葉を返す。その会話を僕は黙って聞いていた。幾分か具体性を欠いた、それでもあたたかみのある会話を聞きながら、僕は何を思えばいいのか本当にわからなかった。


・最後に、イタコが僕の方を見て「おっきぐなったなぁ」と声をかけてくれた。その瞬間、何か込み上げてくるのを感じて、自分の心が動いたことに驚いてしまった。自分でも気がつかないうちに「全然会いに行けなくてごめんね」という言葉が自然と口から出ていた。


・死者と話そうだなんて…勝手で贅沢な高望みだ。人間の弱い心につけ込んだ嘘だ。本当に話せるのなら僕にだってもう一度話したい人がいる。心の底からそう思っているからこそ、僕は怒りに近い反感を霊能者に対して抱いていた。それなのに、イタコの口を借りた祖母の言葉を、不意打ちで一瞬とはいえ受け入れてしまった。


・死者から言葉が届き、こちらも言葉を届けられる。そんなことはあり得ないと僕は今でも思っている。僕の世界には霊やあの世なんて存在しない。しかし恐山特有の磁場のなか、地獄と極楽を見て回り、強烈な人の思いに当てられ、イタコの言葉を聞いた。一連の現実離れした体験の中で、僕の心は確かに死者と交流したのだろうと思う。生きている人間として生きていくために、死者に対して気持ちの整理をつけるために、少しくらいは宗教的に、身勝手に頼っていい部分もあると思った。


・ようやく車へ戻ることができ、宿坊に持ち込む飲み物などを買いに一旦下山することになった。あからさまに体から力が抜けたのがわかった。車に戻るまで気がつかなかったけれど、体がずっと強張ってしまっていたらしく、肩や背中が肩がひどく凝っていて痛んだ。取り憑かれた人が霊をおぶっているイメージはこの痛みから来ているに違いない。




・ここで前半終了です。後半は「恐山に泊まる編」。お楽しみに〜。







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