或る男のディナー

 ムシャクシャしている。とてもムシャクシャしている。
 思えば朝からツイていなかった。
 駅まで着いて定期を忘れたことに気付き、乗りたい電車に乗れなかった。
 職場ではクレームとも繰り言ともつかぬ高齢者の話に一時間付き合わされ、昼飯を食いそびれた。
 挙げ句の果てに、深夜のお楽しみだった推しの配信がリスケになるという投稿がたった今SNSに流れてきた。
 もうイヤだ、私が一体何をした?
 品行方正…とは言わないまでも、最近は外での飲食を控え、真面目に仕事もやってきた。私なりにコツコツとやってきたのに、この仕打ちはあんまりだ。
 そんな思いでとぼとぼと職場を出た私のスマホに、妻からのメッセージが届いた。

 『数日休みになったので名古屋の実家に親の様子を見に帰る。ソラとボコも連れてくのでよろしく』

 福音が、私の心に響き渡った。
 妻は数日家にいない。インコの世話もしなくていい。こんなチャンスは滅多に無い。何て素晴らしい日なんだ!それまでの不機嫌を、どこかに思いきり蹴り飛ばした。
 何をする?遊ぶ?いや、泊りがけでどこかに行くか?明日の仕事なんざ休めばいい。どうせ有給は使いきれないほど余ってるんだから。
 突然頭が忙しなく回転し始めた私の前に、一軒のバーが見えてきた。ここのところご無沙汰になっていた肉バルだ。美味い肉と飲み物、男の子が嫌いなものが何一つない場所。
 そうだ、こういう時は一度落ち着いて、美味いものを飲み食いしながら考えるのがいい。焦ってもろくなことにならないし、そもそも私は空腹だ。
 「いいね」
 主語も何も全て取っ払った呟きを口にして、私は地下へ進む階段を降り始めた。

 お客は、7割ほどの席を埋めているようだ。
 店員の案内で、運良くカウンター端の席を勧められる。これはいい。空間も広く取れるし、何より隣からの邪魔が入らない。一人で飲むにはうってつけだ。
 メニューに軽く目を通す。目を引く限定品はなさそうだ。前回と大きく変わった様子も無い。ならば、お気に入りを頼むしかないだろう。
 私は軽く手を挙げ、店員に酒とツマミを注文する。それほど待つこともなく、注文した品が運ばれてきた。そのタイミングで、追加の料理も注文しておいた。目の前のグラスと皿に、笑みがこぼれる。
 ハートランドのビールと、日替わり前菜の3種盛り合わせ。今日はゴルゴンゾーラソースをかけたポテトサラダ、合鴨のコンフィ、小アジの南蛮漬けだ。そして、オリーブの実も小皿に盛ってある。4品なのに3種盛りとは、なんて野暮なことは言わない。お店の好意に感謝し、美味しくいただく。それでいい。
 「いただきます」
 私はグラスの縁ギリギリに泡がせり上がったハートランドを、目の高さまで持ち上げる乾杯の儀式を済ませて口に運ぶ。最初にクリーミーな泡の甘みと感触、そして程良く冷えたビールの冷感と刺激、苦みとコクが一気に口と喉を潤す。二口味わい、ため息を一つ。満足の声を極力殺しながらだ。美味い。
 このまま一息にビールを飲み干したい欲をなだめながら、前菜の盛り合わせに目をやる。ここはまずポテサラからだな。私は割り箸を取り、白いチーズソースの掛かった淡い黄色の塊を崩した。

 ここのお店が好きな理由の一つは、カトラリーに割り箸を置いている所だ。肉バルは何かと小洒落たスタイルを強要する店が往々にしてある。格式と誇りを持って経営しているのは分かるが、気取った中にもフランクさや遊びが無いと、客は気疲れしてしまう。その点、この店はそのあたりを分かってくれるから嬉しい。
 大ぶりのベーコンと共にポテトサラダを口に運ぶ。数回咀嚼して飲み込んだら、間髪入れずにビールを流し込む。間に合った。チーズ風味のソースがポテサラに合わない訳が無い。そこにベーコンの塩気が加わればもう確定で美味い。粉っぽさ?ビールで補えばいい。
 その流れで小アジの南蛮漬けも口に放り込む。程良い酸味と青魚特有の風味、漬け込んだ玉ネギの柔らかい食感が揃うと、何故楽しくなるんだろう?ちょっとだけ、焼酎ロックが飲みたくなった。
 合鴨のコンフィは、一切れをじっくり噛み締め、飲み込んだところでビールを一口。鴨の味と強い脂を、ビールの炭酸が洗い流してくれる。ああ、美味しい。

 そんなことを続けていれば、当然だがビールはすぐに無くなる。お代わり、といきたいところだが、他の飲み物でも合わせたいので、サングリアを注文した。
 運ばれてきた濃褐色のグラスを持って一口。そうそう、このブドウ感が良い。この店のサングリアは、漬け込む果実にブドウを多く入れているらしい。言ってみれば、ブドウ強化赤ワイン、といったところか。普段甘い酒は飲まない主義だが、ここのサングリアは数少ないお気に入りだ。
 そうだ、オリーブも忘れてはいけない。一粒つまみ、口に放り込む。噛むと出てくる、ジュワッとする濃厚な風味は、エグみと感じるギリギリで踏みとどまる。そこにサングリアを流し込めば綺麗さっぱり。この追いかけっこにも似た組み合わせは、この店での小さな楽しみでもある。
 前菜を摘みながらサングリアを傾け、グラスが空けばお代わりをし、気付けばオリーブ数粒を残して前菜とサングリアが空いた。これからメインディッシュが来るまでどうするか。オリーブに合う飲み物は…あった。
 「すみません、ジョニ赤のハイボールください」
 少し離れた位置の店員にオーダーを伝え、運ばれた炭酸飲料に口をつける。バランスの良いウイスキーの風味と香り、炭酸のサッパリ感が丁度いい。これならオリーブにも釣り合うし、この後の料理にも合うだろう。
 ハイボールをちびちび飲みながらオリーブを囓り、残り一粒となったところでメインディッシュが到着した。

 牛肩ロースのステーキ。ミディアムに焼いてもらった。肉は既にカットされており、カリカリの外側とピンクがかった肉の赤身のコントラストが食欲をそそる。迷うことなく箸で一切れ掴み、口に運ぶ。
 噛むほどに出る肉汁を飲みながら咀嚼し、サクサクと噛み砕いて飲み込む。肉の風味と淡く付けられた塩胡椒の味だけでも十分に美味い。だが、この店のサワークリームソースを付けて食べるのも捨てがたい。軽い爽快感すら感じるソースを絡めて食べると、味わいはまた広がる。
 肉を喰らい、ハイボールを飲み、たまに付け合せのポテトを摘む。出来ることならずっと続けていたいルーティンだが、物事には必ず終わりが来るものだ。まずポテトが無くなり、肉が無くなった。ハイボールは、残り一口。私はオリーブの最後の一粒を噛み締め、ハイボールで流した。

 「ごちそうさまでした」

 本音を言えば、もう少し食べたいし、飲みたい。だが、今のテンションで欲望を優先すれば、確実に翌朝後悔することになる。長年の経験は伊達ではない。今の私は、過去数十年の失敗し続けた私の上に成り立っている。
 会計を済ませ、店を出る。あれだけ食べて、五千円でお釣りがくるのだから、どこで儲けを取っているのか不思議ではある。が、それを気にしても始まらないので、また次に来るときまで開いていることを願うばかりだ。

 食事の間に、次の休日スケジュールはだいたい計画できた。明日?休むのは厳しいと、理性が働いてくれたよ。
 久しぶりに水族館に行こう。ついでに、今度は海の幸を堪能して、ちょっといい宿でのんびりしよう。きっと楽しいに違いない。
 人生は素晴らしい、そう思いながら足早に駅へ向かう。つくづく私は現金な性格をしているものだ。数時間前の荒れた心境はどこへ行ったのか。
 さっき蹴り飛ばした不機嫌の先に、誰もいませんように。

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