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いまを生きる。

 三寒四温でゆるんだ冬が春になり、こんどは三涼四暑で今年の夏が生まれようとしている。予報では昨年にも増して酷暑が猛威をふるうそうだが、先のことを今病んでも無用な心労が嵩むだけ。考えまい、先のことなど。
 
 トム・シュルマンの『いまを生きる』は35年前に公開されたアカデミー脚本賞を受賞した映画。公開された1989年、日本は昭和が平成に変わった年である。ふたつの間に因果関係などあるわけないのに、元号の推移が「今日の生き方」の有り様を変えた転換点と重なる。ちょうどあの頃、景気は踊り場で足踏みをし始め、がむしゃらの鎧はゆとりの浴衣に着せ替えられた。「24時間戦えますか?」の根性論は、過労死撲滅とワークライフバランスのシュプレヒコールで蓋をされ、今や戦犯あつかいである。
 かつて希望の合言葉だった「明日はもっとよくなる」は輪郭を欠き、幻想となってたちのぼる煙のように掴み得ぬものとなった。
 今日という足場はもはや踏み固められた大地ではない。小塔のてっぺんに立つように、見渡すことはできても踏み出すべき大地を見失った孤島である。
 
 切磋琢磨に代わって台頭してきたのが偽りの達観だった。まだなんにもわかっちゃいないひよっこのくせに、コミュ力をスマホの力を借りながら、さも自分自身で勝ち得たような顔をして、勘違いに気づけずにいる。間違った納得の蔓延で、炎上、中傷、揶揄、誹謗を秘匿の態でやらかすようになっちまったのがその最たる証。
 
 今日は自分磨きに生きなきゃならん。他人を貶めて得られる優越感など、昭和の時代でも無価値な屑だった。そいつをわざわざゴミ箱から拾い上げてご苦労にも披露なさるとは、おつむの退化も甚だしい。
 
 三癇四隠。
 怒りはまだまだ青いがゆえ。そいつを理性で踏みとどまらせながら、穏やかに進む。三度癇癪を起こしても、四度平静をもって包み込み、悟りに向かう。
 
 今日もまた、いまを生きる。火もまた涼しの境地がほど遠いことはわかっちゃいるが、酷暑になっても涼しい顔で受け入れる。今はそのつもりでいる。今この瞬間、眼前のものにだけ目を向けていれば、明日に煩わされずにすむ。少なくとも、今この瞬間だけは。

【「明日は今日よりずっとよくなる」は昔の話。この時期、明日は今日よりもっと、ずっと暑くなる。辛くなる。】

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