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フォレスト・ガンプを

セリフについては一字一句…というわけではないのでご了承ください。


まず、フォレスト・ガンプは主人公の名前です。フォレストは「人間は時々無意味で馬鹿なことをするってことを僕に思い出させるため」に過去の偉人からつけられた名前。ですが一方で、目的地とやることがあることは良いことだと、フォレストはベトナム戦争に行って気づきます。
これって僕が能登半島に地震が起こって強く思った『いま、ここ』のことでもあると思うんです。僕は、死んでもいいと思える場所(ここ)で生きなきゃと思えることをやる(いま)が大事なんだと思いました。目的地とは少し違うんだけど、映画の中でも故郷に帰ろうと言うシーンが何度も出てきたことからも、場所性についても言っているのではないかと。

それからフォレストの人間性から学べることは、出来事の瞬間は確かに辛いけど辛さを引きずらないことと、悪口などの人の言葉を真に受け取らないことです。しかし、自分の子供が生まれていたことを知ると、自分が言われていたように馬鹿ではないかと気にし、涙します(嬉し涙とも取れるが)。これは、誰でも平気に見えても深層心理下では気にしている描写にも見えます。

アイデンティティについての描写も幾度となくありました。どんな運命だろうと、どんな人生だろうと、フォレスト・ガンプはフォレスト・ガンプと。最愛のジェリーも、フォレストに酷くしたのは自分がわからなかったからとアイデンティティを視点にしていました。

ここで運命という言葉が出てきましたが、これが映画を貫くもの。
運命とは。生まれたもったものとは。生まれてしまった場所とは。変えられないものとは。そこには、残酷さがあります。しかし、一方には尊さがあります。運命の中で、アメフト、軍役、卓球、エビ漁、食べて寝て走って…。
理由なんてない。走りたいから走ってるだけ。ただ目の前のことに打ち込むんでいるだけでした。そしてそれを続けたことによって成し遂げられることの尊さが描かれていました。

少し余談になりますが、最近の研究では人間に自由意志のようなものはないかもしれないというものがあります。しかし、僕は瞬間瞬間においてはそうだからこそ、長い計画や実行によって成し遂げられた人間の成果には価値があるんじゃないのかと思うのです。

フォレストは特別なことはしていません。その瞬間瞬間を真っ当に生きただけです。そして、それを続けました。

フォレストのママは自身の死を感じて言いました。運命は自分で見つけるもの、掴むものだと。ここで僕は、ダン中尉が嵐(神様)と喧嘩していたシーンを思い出しました。ダン中尉は、傷痍軍人です。代々名誉の戦死を遂げてきた家系に生まれたことで自身も戦場で最後を迎えることを運命と信じ、そこから助けられたことを恨みます。しかし、ダン中尉は神様と仲直りし、穏やかな夕日の沈む海で泳ぎます。この神様との仲直りは、ダン中尉が望まなかった戦争の後の人生を運命として受け入れ、これからの運命を自分で掴み取る決心をしたということだと思います。

終盤に、フォレストはジェリーに「結婚してくれ」と言い、それをきっかけに二人はまた離れ離れになります。一体、この「結婚してくれ」の言葉は正しかったのか?フォレストの愛ではあったけど、二人の愛と言えたのか?そう思いましたが、結局は二人の子供が残され、ジェリーからも「結婚してくれる?」と言われ、二人は結ばれることになります。これは病床のママの言葉「あんたも自分の運命を早く掴みなさい。あとは自分の力で努力することよ。」を実行したものだと思います。フォレストは自分の運命をジェリーと結ばれることと思い、「結婚してくれ」と伝える努力をした。そして、何年も後にはなりますが、二人は結ばれる運命を掴み取ったのです。

フォレストは、運命について誰が正しいのかわからないと言います。ママはそれぞれの人が運命を持っていると言うし、ダン中尉からはみな風に吹かれて漂っているだけとの思いを感じたと。その上でフォレストは、両方のことが起きるんだろうと自信で考えを持ちます。
そして僕が思ったのは、運命は変えられないものと掴み取るものがあるんだろうということ。変えられない過去を受け入れ、その中で正直に真っ当に、実直に生きながら、未来を掴み取ることなんだろうと。または、受け入れたものを運命と呼ぶのかもしれません。

僕は2020年、母方と父方の祖母二人の死と新型コロナの流行をきっかけに石川県に帰ってきました。その時に、仏壇の前で誓ったんです。ばあちゃんに見られとっても恥ずかしくないように真っ当に生きると。この映画はそのことも思い出させてくれました。

ジェリーの病床の枕元では、フォレストから自然の雄大さ、美しさが語られます。生活に打ち込む傍らには自然があること、自然に人は敵わないけどその中で人間の営みを送る尊さが語られているようでした。また、僕は写真を通してそれらを感じられていることを幸せに思いました。

さて、僕がフォレスト・ガンプを見ようと思ったきっかけですが、Xにてママの喩えがうまくないとの投稿を見かけたからです。そのセリフは、「人生はチョコレートの箱とおんなじ。開けてみるまでわからない。」

病床シーンでのそのセリフの直前「これがママの寿命なの。死は人生の一部なんだから。誰でも持ってる運命。運命は自分で見つけなければね。」も加味して考えると、人生という箱を開けてみればどんな運命が入っているかわからない。運命を食べてしまったら、その空き箱に何を入れていくかは自分次第。ということになると思います。

ただ、その解釈を加えてもなぜチョコレートなのかわからないので、うまい喩えとは確かに言えないかもしれません。けどそれはユーモア?アメリカンジョーク?で、ママはいつも少しズレたことを言う雰囲気をわかりやすく伝えるためではないかと思いました。ママのセリフの後に「説明が上手だったから僕はいつも理解できた。」というフォレストの言葉が続くことが二度?三度?ありました。これは皮肉的に解説しているものと言えるかと思います。フォレストとしては理解できているつもりのまっすぐな発言なんですが、作意としては皮肉めかしてユーモアを加えるものなのかなと。この映画は戦争であってもユーモアを散りばめ、見やすくしてくれていましたから。

こじつけるなら、苦味と甘みのあるチョコレート、どちらを感じるかはその人次第。甘さを堪能した後に、歯磨きの努力を怠れば虫歯にもなる。食べるのも、そこに何かをまた詰めるのも自分次第。ということも言えるのかもしれません。

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