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大切な人のそばにいる

生き物は、産まれた時から終着駅に向かって歩いている。
穏やかで気持ちよく過ごして、それまでの時間を大切に生きて欲しい。
人生の幕引きには色んな形があっていいと教えてくれた、在宅で出会った方たちと訪問看護師のお話です。

Cさんは80代女性で肺癌がわかってからも一人暮らしをしていました。
ケアマネからの紹介で、初めて私たち看護師が家に伺った時は、在宅酸素のチューブをクルクルと器用に巻きながら家の中の移動をしていました。酸素の取り扱いは慣れたものです。

Cさんの口からは、片方の肺が機能していないと言われていて、かかりつけ医からはホスピスを紹介されていること、自分としては自宅で最期まで過ごしたい希望を持ちながらも、病気が進んだら叶わないのではないかという不安が語られました。

室内の壁にはCさんの作品である貼り絵や演歌歌手のポスターが飾られていて、何が好きなのかを知ることができました。Cさんは話題に事欠かないほど趣味がありました。

自宅裏に住む息子さん夫婦は同居することを申し出ていましたが「気を使うから」と望まず、毎朝と毎晩、息子さん夫婦か近所に嫁いだ娘さんの誰かしらが訪ねていて、一人暮らしを続けていました。

午前中は洗濯やシャワー浴をして過ごします。お風呂で倒れる人が多いと知ってから「お風呂は明るいうちに入った方がいい」と午前中に済ませていました。午後は多くの友人が訪ねてきます。

介護保険を申請してから、酸素ボンベを伴って友人も通っているデイサービスを利用しはじめ楽しんでいました。一人で暮らせるくらいなので、介護度は要支援で、訪問看護は週1回で医療保険を利用することになりました。


訪問看護の利用を始めて間もなく、チケットを取っていた演歌歌手のコンサートが近くなりましたが、会場までの往復やコンサートの時間を考えてCさんは参加せず、友人だけで行くことになりました。

1ヶ月ほどで病状が進んで、デイサービスは通えなくなりました。ケアマネは介護保険の区分変更申請をして、介護ベッドを借りました。

寝ている時間が増えてからは友人や孫も含め訪ねる人が更に増えていました。
私たち看護師が伺うと、初めましての訪問者が毎回いて、Cさんとの交友関係を聞くことができました。

Cさんは30年近く調理師として働いていたので、事あるごとに人を集めて食事を振る舞うことを楽しみにしていたそうです。今は介護ベッドが置かれている部屋で、長いテーブルに大勢の人が食事する姿が目に浮かぶようでした。

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定期的に医療用麻薬と不安と痛みには屯用の薬を使いました。口の渇きには、経口補水ゼリーを摂りましたが、徐々に飲む量が減りました。問いかけへの反応は少なくなり、痛み止めの医療用麻薬は貼り薬に変更して苦痛を取っていました。自分で排泄することは難しくなって、お腹を押して出すようになりました。

私たち看護師は、訪問頻度を増やしました。
体調をみて負担がないように、回数を分けてシャンプーや手足をお湯につけて、着替えをしました。

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ゼイゼイとした呼吸になり熱が出て、吸引機で痰を引くようになりました。夜間に「ゴロゴロが良くならない」と家族の連絡を受け私たち看護師は臨時訪問し、翌日も希望で対応しました。
それから数日後に血圧が下がり、その日はこれから起こり得る呼吸の変化や連絡方法を再確認し、同日夜間に顔色が悪いと家族から連絡を受けて訪問しました。

Cさんは天に召されました。
最後の手当は息子さん夫婦や娘さんと孫、ひ孫と一緒に行いました。

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Cさんは、いつも色んな楽しみを予定していました。その一つが貼り絵の展覧会でした。私たち看護師と交わした会話もコンサートや食事会、貼り絵のことでした。
近日展覧会があることも聞いていましたが、亡くなった数日後が開催日でした。

事務所で始業前に「実は見てきたんだ」「え~私も」「私も」・・・
私たち看護師は、申し合わせたのではなく、各々が別の時間に展覧会を見に行っていました。家に飾られていた貼り絵に負けず劣らずの動物や風景の素敵な作品を見て、口々に「いい絵だったね」と言い合いました。

四十九日の法要前、グリーフケアのため遺影を拝みに行きました。
娘さんから、遠く離れた親戚の所に、Cさんの好きな着物の色の蝶になって亡くなった日に表れたと聞きました。
常に人に囲まれていたお母さんが、最後に会えなかった人に挨拶をして周っていたように感じたと。

Cさんとの思い出が周りの人たちの中に残されています。

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