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家族との会話

生き物は、産まれた時から終着駅に向かって歩いている。
必ず、訪れる死から目を背けず、それまでの時間を大切に生きて欲しい。人生の幕引きには色んな形があっていいと教えてくれた在宅で出会った方たちと看護師のお話です。

Fさんは70代の男性、人間ドックで胃癌ステージⅢがみつかって、4年前に胃全摘術と化学療法を行いました。
抗癌剤治療を続けていましたが、熱が出たり血液検査で白血球減少の異常値が出たり、腹膜播種といって、癌がお腹の中に散らばった難治性の状態になりました。
手術を受けた大学病院に入院して、今後の抗がん剤治療の継続は困難とされました。

効果的な治療が残されていない場合に、BSC(ベストサポーティブケア)という、積極的な治療は行わず、痛みや苦痛を取ったり、QOL(生活の質)の重視を目的としたケアにすることを提案されます。

Fさんは、BSCを選びました。

在宅(家)療養を希望しましたが、体力低下と全身倦怠感や嘔吐など症状が強くあるため、すぐ帰ることができず、体調を整えてから退院となりました。
この期間は、コロナ禍で面会は妻のみ、時間も限られていました。
退院後は、在宅医の介入を依頼し、信頼している大学病院も通院する併診という形になりました。

Fさんは現役時代営業職で、全国何十か所と転勤をしたそうです。今の家には住み始めて20年で、趣味は奥さんと二人で行く海外旅行や色鉛筆画です。リビングには、旅行に行った時の写真や、旅先のスケッチ画が飾られていました。

夫婦二人暮らしで、奥さんは「医療体制を整えて自宅で看ていきたい。本来の寝室だった2階に上がることが体力的に難しくなるので、1階でも暮らせるようにベッドを借りたい」と介護申請をしました。
「自分の好きなことをできる環境にしてあげたい」と考えていました。

2人の娘さん家族は他県在住で、コロナ禍を理由に県をまたぐ移動を自粛して、Fさんに会えていませんでした。
        
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私たち訪問看護師は入院中の経過を、大学病院の地域連携の担当看護師から文書や電話で情報を得て、ケアマネと一緒に家に伺いました。

「初めまして」の日、Fさんは名刺を差し出し自己紹介してくれて、家の中は歩いて案内しました。
私たち看護師は、体の様子をどう感じているか、家でどんな風に過ごしたいかを聞き、訪問看護の具体的な関わり方を説明しました。そして、退院直後のため毎週の訪問看護を提案しました。

翌週伺うと倦怠感が強く、家の中の移動は少なくなっていました。
私たち看護師は、タクティールというマッサージでリラクゼーションをしました。


急激な変化に訪問診療をした医師は、中心静脈栄養(CVポート)を提案しましたが、「一番楽しみなお風呂に浸かれなくなる」と希望しませんでした。

点滴の針は鎖骨の近くに刺すので、水が入らないように鎖骨の周りを保護してお風呂に入る方法もありますが、そのように手を掛けることを望みませんでした。
Fさんは、大学病院の主治医にも点滴をしたくない気持ちを相談して、食欲不振に対してステロイド剤の内服薬で経過をみていくことになりました。

点滴をしない選択は、Fさんが、いつものスタイルで大好きなお風呂に入りたいという希望を叶えました。

食事は1回の日もありましたが、スムージーや高カロリー飲料も補食して飲みました。
「眠ってしまって水分が摂れない」と奥さんから相談があった時は、私たち看護師は経口補水液を紹介して、効果的に水分を体に入れるようにしました。

食べることと出すことはつながっています。便秘でお腹が張った時は、奥さんにお腹のマッサージを説明しました。

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深夜から38.0台の熱と、のどの痛みがあり、解熱剤を使っても39.0台まで上ったと奥さんから電話が入り、緊急訪問をしました。
訪問時は、熱は下がっていましたが、痰が貯まりやすく湿った咳が出ていて、うがいやマウスケアを奥さんに説明しながら行いました。

訪問診療医からは、抗菌剤と消炎鎮痛剤の処方がありました。

同日午後に、奥さんから「歩いていて崩れるようにソファーに倒れこんだ」と連絡が入り、再度緊急訪問をしました。
血圧が低く脈拍は多く酸素飽和度は80%台で、足は冷たく、声を掛けると返事はあるものの眼は開けず、顔色は蒼白い状態でした。

訪問診療医に連絡して、在宅酸素療法を始めることになりました。

その日から1階の介護ベッドで過ごすことになり、私たち看護師は、寝ている方の介護方法を説明しました。

訪問看護は毎日予定され、皮膚の観察方法を伝えられていた奥さんは、お尻の寝だこを見つけてくれて、早期に手当を始めることができました。


毎日訪問看護を利用する状況は、これから日を追うごとに、一段階ずつ状態が悪くなる未来が予測されるということです。

奥さんには、起こりうる状態変化や緊急時の連絡方法を説明しました。
娘さん達は状況を伝えられて、すぐ家族で帰省してくれました。

娘や孫たちと対面して話しをした翌日は往診日でした。
訪問診療医が到着した時間にFさんは亡くなりました。
退院してから約2週間の短い療養でした。


1階に置かれた介護ベッドが使われたのは数日で、Fさんが大切にする普段通りお風呂に入ることや、2階の寝室で眠ることは、最後まで可能な限り大事にされた想いです。


私たち看護師は、旅行の写真やスケッチ画のことを楽しく話すFさんを想像していましたが、日にち単位で変化するFさんの身体的、時間的余裕はありませんでした。

でも家族は違います。Fさんの言わんとすることが家族なら伝わります。
家族が揃った最期の1日に「ちゃんと返事したのよ」と奥さんが言うように、娘や孫が囲んだ時、慣れ親しんだ家族の声に反応して、会話ができたのです。

医師や看護師が訪問する時間に、その時を選ぶ方は、遺される家族が困らないように配慮している気がしてなりません。
家に到着したら最期の時だった方は、私が経験した中でも一人や二人ではありません。
どの方も家族想いで、信念を持つ生き方をしています。

寿命は人それぞれ違いますが、ちゃんと寿命まで生きた人は、自分の思い描く幕引きができるのだと思わずにはいられません。

月単位と言われていた余命より早く、その時を迎えることになったFさん。

少しずつ体が休んでいくことのサインを出して、奥さんがお別れを受け入れる時間を作り、最後は家族みんなで集まってFさんを囲んで会話できました。
入院中に、家族と会えなかったことが一番辛かったと話したFさんの願いがそうさせたのだと思えてなりません。


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