見出し画像

【ビジネスコラム】先生と呼ばないで

2年ほど前に、とある議員先生とお話しする機会があった、○○先生と呼ぶと「先生とは呼ばないでください」という?「何で?」とあほの子みたいに聞いてみると「先生と市民で区分けはされたくない」という。では「なぜ、市民の代表と議員をしているわけだから、その時点で、「みんな(市民)と訴えるひとの区分けはが出来上がっているのでは?」と答えると、「…」何も回答がなかった。それ以来○○議員は「○○さん」呼ぶようにしている。感覚も「議員先生」とは思わない、ただの知り合い程度の関係で終わっている

先生はもういない…

先生というのは、ある程度の「圧倒感」みたいなオーラがある、幼少の頃は学校の先生、社会人になると、士業先生など、コンサル、先生に巡り合う
感覚的には北斗の拳のラオウみたいな「どどーん」とした感覚だ、キャラ立ちがしっかりしていて、隙が無い、理論武装した小僧など、一撃で論破できる。なぜか納得できる「敵にしちゃだめだ」という自然に身体や脳が拒否反応を起こす…妙な感覚…それを感じる先生は、ほぼいない…絶滅危惧種だ…

「お悩みないですかー」営業する先生

学校の先生も士業と呼ばれる先生もそうだ、最近の先生は「圧倒感」がない、中には「圧倒感」が近寄りがたい雰囲気を醸し出すから出さないようにしているお友達感覚先生がいる、
朝活や異業種交流会で、頭を下げ名刺を弾丸のように配りまくる、士業先生がいるが「そんな先生」に「専門は?」と聞いてみると「何でもやります」(昭和の頃から変わらない名古屋圏のCMか!)何のために苦労して国家資格を取り、どんなサービスを提供したいのか?どんな社会貢献がしたいの?かわからない。ひとの悩みを取り除く商売… 先生は営業しちゃだめだ…ラオウのようにどっしり構えてないとと思うのは私だけだろうか?
名刺をばらまくような、先生にお世話になりたくない。そんな先生の大半が「専門性もなく、ただ仕事をこなすだけの労働者に成り下がった、労働者先生」だ、


なんでもやりますは、なんにもできない

素敵なオトコたち、オンナたちは、すべてアニメやマンガドラマ映画など2次元に行ってしまった…素敵な先生も2次元に行ってしまったと最近よく感じる。
皆が2次元の虜になる理由がよくわかる。

「先生」がいなくなる近未来

最近、先生という言葉の意味が落ちてきている、先生という職業はAIに淘汰され、AI支配されないと抗う先生たちも、そのうちAIに淘汰され、ひとはAIから物事を学び、ひとは絶対平等化し、AIに支配される。アニメ「サイコ・パス」のような世界が近づいている。あと30年後には死語になる先生はもう世の中にはいなくなる。

もう「先生」でなくなる兆しが来ている

先生と言われる職業も、統一された規格ででフランチャイズ化されてきている。実は、その兆しはもう来いて、「この先生でないと」という感覚は薄れていき淘汰されてきている。
実際、私の業界を観ていても結婚相談所は○○〇のフランチャイズ化され、どの相談所も、似たり寄ったりのところが増えてきた。もう仲人先生ではないただのサービス要員だ、あと10年としたら仲人先生とは呼ばれなくなり、そのうち先生という仕事はなくなっていくだろう。
その先生しか知らないという「特殊」なものを持っていないと「自分が構築し作り上げたものでなく」AIに仕事を持っていかれる。もう来ているのである

「先生」という言葉の社会的、文化的な意味

先生という言葉の意味を考えてみよう、先生は三種類あると私は考える

  • リーダーシップ:集団をまとめ、方向性を示す役割(政治家・指導者・革命家など)

  • 知識の伝達者:学ぶ者に対して知識や技術を教える役割(学校の先生・ドクター弁護士 教授など)

  • 意見の発信者:自己の考えや意見を公表し、影響を与える役割(著者・ブロガーなど)

私なりに分けてみた、普通の人の視点から観ると
「自分より秀でた人の事」「自分ではできない事」「多数からを先生呼ばれる」と先生と呼ぶのではないかと考えている。

先生とは、守護者であり、知恵者であり、893である

社会的にも重宝し、「自分たちを高めてくれる存在として」先生と呼称する称号でもある。時代や歴史を変えるのも先生と言われるひとである、普通のひととは違い、危険も伴う、意見の違うものから、批判されたり、攻撃されたり、暗殺されたり、することもある、ある意味先生と呼ばれるひとは、ひとにさらされる「危険な職業でもある」
そんなこともあり、先生と呼ばれるひとは、「肝が据わって」いる、そうでないと先生家業はやってられない、「やってみるなら!やってみろや!」という凄みのある「言い切り」があり、ヤ●ザ的な感覚がないと先生ではないと考える
世が世であれば、人々の(市民の)盾的な存在でもある。圧政から、「決起」したジャンヌダルクも、ゲバラも、市民の為に決起し、「市民の為に身を投じる」
令和の今は、どうだろうか?クライアント(フツーの人)から舐められ、子どもたちからも舐められ、若い女性の○○○○を舐め、市民を舐め、カネと権力に溺れ札束を指で舐めながら数える 「なめまわし先生」ばかり。もう本当の先生はいないのだろうか?そんな間にどんどん弱体化していく、先生がいない世の中は「他国から、AIから蹂躙される奴隷国家」の表れである

AIに淘汰されない先生は

みんなと同じ考えの先生はいらない、前も話したかもしれんが、「先生は孤独で孤高である」お手て繋いでつるんじゃだめだ、同業の同じ先生とつるむより、その他先生とつるんだ方がいい、その方がいろいろな情報や知識が入ってくる。「先生はぼっち」ぐらいがちょうどいいのである。「今日は○○先生とランチでーす」とか、いいね欲しさの、映え写真とかいらない、「先生としての生きざま」を魅せてほしい、伝えてほしい、同業先生仲間でワイワイやりたいならもう先生ではない、「ただのひと」だ、

出会えてよかったとわくわくさせてくれる先生に会いたい!どこかで出会えることを楽しみにしている
私も、「わくわくするコンサルタント」めざしております。永遠の課題ですね


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?