見出し画像

東京生まれガチポエ育ち 孤独な奴は大体友達

夢と希望、学びと成長をキーワードとするキラキラポエム、
通称キラポエが世の中を席巻する中、
ひっそりとここで肩身の狭い思いをしている人間がいる。
私である。

いつの頃からか記憶にないが、私には詩を書く趣味があった。
おそらく小学校高学年ぐらいの頃に、
国語の授業で詩を習ってからのことだと思う。

その頃私にはちょっと変わった友人がいて、
土曜か日曜になるとよく私の家にアポ無しで凸してきては
二人でチャリを並べて図書館へ行くという謎の習慣があった。
今思うと気持ちの悪い小学生だなと思うのだが、
友人とは図書館で色々な詩の本を読み漁ったり
隣り合ってそれぞれノートに向かって詩を書いたり
書いた詩をお互いに見せ合ったりしていた。

その後、私は中高一貫の私立校へ進学したため
友人とはやや疎遠になってしまったのだが、
詩を書く趣味は家で一人で細々と続けていた。
多感な時期で親との関係も芳しくなく、
詩でも書いて現実逃避するか、
または心の中のモヤモヤを言語化して昇華させる必要があったのだ。
当時のノートは今や残っていないのが非常に残念だが、
覚えている範囲ではこんなことを書いていた。



私の肉体を
養っているのは誰か
それは両親である

私の心を
養っているのは誰か
それはいない

ゆえに
私の心は死んでいる
私の心は死んでいる

確か高校の終わり頃の暗黒期に書いたやつ

キラポエとは程遠い、屍のようなポエムである。
しかし、こんな心境は大人になるまでずっと続いた。
私の親はふたりとも教師で忙しかったし、
母親は家では家事に追われヒステリックだった。
両親が二人揃うと私にはわからない公教育の現場の愚痴や
地元の政治批判みたいな内輪ネタばかりでつまらなかったし、
自己肯定感のバカ高い弟とも気は合わなかったので、
私は家庭内で孤立していた。
学校はというと、
部活は美術部なので土日の活動はなかったし、
平日に部室へ行っても誰もいない日が少なくなかった。
彼氏はいたが自意識をこじらせている変な奴で、
校内ですれ違っても私をシカトしていたし、
部活や生徒会活動でいつも不在で
休日も連絡すらない日々が続いた。
挙句、受験を理由にフラれた。
そんなだったから、私の青春時代はずっと灰色だった。
社会に居場所がないというより、
社会の中に私という人間が存在しないような感覚だった。
文字通り生きている意味が見出せず、
予備校帰りに電車の中で
「今日、家帰ったら死のうかな」とか何とか呟いて
最寄駅でもない友人に付き添われながら電車を降りたこともある。
(その友人は今でも交流のある数少ない友人の一人だ。)

今思えば詩を書く趣味がなかったら
私は本当に死んでいたかもしれない。
詩よりも愛するものは音楽だったが、
音大へ行く気はさらさらなかったし
(親の言う「就職」への道が見えなかったのと、
 自分がそんなブルジョワではないという自覚があったため)、
かといって本当は歌手になりたいなどという
夢みたいなことも言い出せなかったから、
私は心を殺して美大のデザイン学科へ進み、
周りに馴染めずドロップアウトしながらも
なんとか単位をギリギリ満たし、
就活よりも卒業制作を優先することで
5年もかかってようやく美大を卒業できた。

卒業制作は自作の詩集とCDだった。
今思い出しても寒いし、痛すぎる。
私の人生で一番の汚点である。
恥ずかしすぎて誰にも言いたくないから
ポートフォリオに卒業制作を載せたことはない。
私はとうとう卒業するまで、
デザインとは何なのかわからなかったし、
好きにもなれなかったのだ。

何を隠そう留年したのもポエムが原因だった。
1年生の前期の必修課題で、
100枚ドローイング(通称100ドロ)というのがあった。
その名の通りドローイングを100枚描いて、
それを各自で製本して提出するという、
今思えば単純で何ら難しくはない課題だったのだが、
100枚のドローイングをいかに選別・編集し
どのようなテーマ性のもとに一冊にまとめるか
というようなデザイン思考が求められていた。
私はその課題で何を勘違いしたか、
ドローイングにポエムのような短文を添えてしまったのである。
提出日当日、周りの同級生の作品と見比べて私は愕然とした。
やっべー、これやべぇ奴じゃん。
誰もこんな個人的な心象を作品に投影してる奴いないよ。
こんなの恥ずかしくて出せねえええええ。

そうして私は課題を未提出になり、
また家から片道2時間かかる大学の
朝イチの必修授業に出ることもモチベーション的に難しくなり、
その他にも色々あって1年目にして早くも落第してしまった。

にもかかわらず、5年かかって生み出した卒業制作は
結局ポエムだったのだから悲惨すぎて頭が痛い。
そのうえ就職活動の波にもうまく乗れなかったので、
最終的に私は大卒フリーターポエマーになった。
キラポエどころか、夢も希望もないガチポエ狂人である。

私はやけくそになり、とことん狂うことにした。
バイトをしながらボイストレーニングに通った。
歌手になる夢を諦めきれなかったのだ。
家族からは、もはや哀れを通り越して否定もされなくなっていた。
「生きて働いてるだけ偉いよ」と、
いつの間にか私に用意されたハードルは一番下まで下げられていた。

テレビのオーディション番組にも出演したが、
私に幸運の女神は微笑まなかった。
ただただ全国に恥を晒し、
涙ながらのトークは途中で芸人にぶった斬られ、
これまた私の人生における汚点となった。

お金がないから吉祥寺の外れの風呂なしアパートに住み、
2日に1度銭湯へ通った。
休日も赤ペン先生の内職に励み、
空腹のままふらふらと銭湯に浸かりに行ったら
ある日私はのぼせて倒れてしまった。

「いったぁーーーーーーーい!!!」と、
一面の湯気の中に自分の叫び声が響くのが聞こえたあと、
徐々に目の前の解像度が回復すると、
私は銭湯床のタイルの上に真っ裸で仰向けになっていた。
知らないおばさんたちが心配そうに見下ろしていた。
とんでもない羞恥に晒された私はその時やっと、
「あ・・・このままじゃダメだ」と
本当の意味で目を覚ましたのだった。

それから紆余曲折あって、
どうにか私は正社員のデザインの仕事にありついた。
それまでの孤独な日々にも
ぽつりぽつりとポエムは書いていた。
その頃は紙のノートではなく
FC2のブログサービスを使っていたのだが
自分で読んでもしょうもなかったので
既にほとんどの記事は消してしまった。

転職活動中にスナックのバイトで知り合った
近所のマイルドヤンキーと結婚した。
31歳だった。
こんなどうしようもない私と結婚したいなどと
言ってくれる奇特な人は金輪際現れないだろうと思った。
私の人生のハードルは既に最下部まで下げられていたので
親にも反対されず、むしろ結婚を喜ばれた。
そんな日々でも、心は平穏でなかった。
私は夫と眠るセミダブルのベッドの中で
(ちなみにそのベッドは夫が元カノと寝ていたものだ)、
暗闇にまぎれて黙々とスマホでポエムを綴った。



いらないものを
汚いものを
しまっておける箱が欲しい

醜いものを
鋭い刃を
しまっておける箱が欲しい

あなたを愛したことなんて
本当はただの一度もない
そんな言葉を
しまっておける箱が欲しい

誰にも見つからない場所に
鎖をかけて深く深く
隠しておける箱が欲しい

甘い声

こんな夜でも
夫は寝ながら笑ってる
幸せそうな甘い声で
んふふふふと笑ってる
いつも通りの夜に
夫が私に触れるとき
呼応するように私も笑って返す
んふふふふと
夫の幸せに寄り添って眠る
罪悪感に胸をチクチク刺されながら
自分で自分に嘘をつきながら

私は彼に何もしていない
なのに彼はなぜこんなにも幸せそうなんだろう
せめてもっと嫌な人なら
もっと欲にまみれた人や
嘘つきやサイコパスだったなら
私は簡単に裏切ることができただろう
だけど夫の甘い声が私を苦しめる
その幸せを取り上げようとする私を
悪人そのものと非難する
私は逃げ場を失って
他にどうする術もなく
今日も夫の幸せに寄り添って眠る
その甘い声を聞きながら
取り去ることのできない不安を抱いて独りで眠る

結果的にはそんな私の罪悪感など露知らず
夫は複数人の女性と浮気していたのだからこれ幸いである。
私は同僚や友人に手伝ってもらって夫の嘘つきの現場を押さえ、
1ヶ月ほどの別居を経てサクッと夫との離婚を成立させた。
このとき夫は職場の同僚とのバンド練習だと言って
出がけにわざわざベースまで担いでアリバイ工作していたのだから笑えたものである(いや、当時はとても笑える心境ではなかった)。

ここからが第二の人生の幕開けであった。
独身に戻った解放感で好き勝手に遊びまくっていたら
すぐに今の夫と出会った。運命だと思った。
夫は物静かで優しく、とぼけたようなユーモアがあり、
家族思いで子どもと遊ぶのも上手で、
私と同じく底辺時代の苦労を知る人だった。
家の持ち物には共通するものもあり、服や音楽のセンスも似ていた。
どう考えても今後人生を共にするならこの人しかいないと思った。
この時ばかりは私もさすがにキラキラしたポエムをしたためた。



彼は私の甘えに気づいていなかった
あるとき急に脈絡もなくハグしたり
暇を持て余して腕を揉んだりするのは
全て「サービス」だと思っていたらしい
私の中に呆れと笑いが込み上げる
彼は私の甘えを鬱陶しく思うどころか
自分でもその甘さを享受していたのだ
こんな素敵なことがあるだろうか
嫌われる心配などおよそ必要なかった
私はいつでも彼にハグしてよいのだし
脇に滑り込んだり手や腰や腕を揉んだりと
好きなだけ彼に触れることを許されているのだった
この世にかくも幸せな生活があったのだ
込み上げる笑いを自分では抑えることができない
運命の導きにただただ感謝するばかり
なぜなら私はなにもよいことはしていないのだから
何かに対する報いではなく
ただただ運命の巡り合わせでしかないのだ
だからこそ今この幸せを体いっぱいに享受しよう
そして願わくば
日々アップデートされていく幸せでありますように
過去のどんな生活よりも二人が笑顔でいられますように
不満や愚痴はどこかへ置き去ってきてしまい
いつもお互いに癒しあえる存在でありますように
日々涙が出るほどの感謝と喜びを忘れませんように
愛情の泉がいつまでもこんこんと湧き続けますように

まさに今見ると鳥肌もののお花畑ポエムだが、
不思議なことに、胸につかえがなくなると
わざわざポエムに綴りたいことも次第になくなってくるのである。
ということで私はしばらくポエムのことは忘れて
日々を楽しく過ごしていたのだが
実はこの時期私は別の意味でポエってしまっていた。
「好きなことで、生きていく。」
このフレーズにどこか聞き覚えはないだろうか。
そう、YouTubeである。
私はお花畑の解放感で動画のマネタイズを夢見てしまったのである。

夫と知り合ったばかりの頃、私はまだ正社員として働いていた。
とある通販化粧品会社のインハウスデザイナーだったのだ。
しかし、夫と知り合った私は人生の可笑しみ楽しみに目覚めてしまい
好きでもない化粧品を売るための仕事がバカバカしくなってしまった。
周りは新卒採用の生え抜き社員ばかりで、中途の私は浮いていた。
なおかつ社内でクリエイティブ職は自分一人だったので
仕事上の困りごとを相談できる相手もなく
やり方の改善を提案してもなかなか理解が進まない現状があった。
それである日限界が来て、泣きながら全てを投げ出してしまったのだ。

しばらくの間私は無職になった。
その際にYouTubeを見ていて、これワシにもできるんやないか?と
トチ狂って動画の制作を始めてしまったのである。
といってもそこは無精の私であったため、
撮影も編集も全てスマホだけで完結させようと目論んだ。
何だかんだで最終的に130本くらいはしょうもない動画を
誰も見ていないYouTubeチャンネルにアップし続けたと思う。
中身は海外旅行のvlogだったり、
出したくもないが顔出しで喋ってみたりもした。
とにかく収益化の第一関門となる、
チャンネル登録者1000人を突破しなくてはならなかったのだ。
そのためにはなるべくコンスタントに動画を出し続ける必要があったのだが
節操もなく色々なジャンルをつまみ食いするだけの日々は虚しく、
収益化までの道のりは果てしなく遠かった。
自分の持ちうるネタは全て出し切ろうと悪戦苦闘するうち、
やはり原点であるアレに行き着いていった。
歌とポエムである。

そしてある日私はひらめいた。
当時TikTokから火がついてバズりにバズっていたあの曲、
『香水』にハモることを思いついたのである。
それも、ただハモるだけでなく、
持ち前のポエムセンス(?)で歌詞を改変したのだ。
私は、瑛人の歌に重ねる形で自分の歌を録音し、
その替え歌の歌詞を概要欄に載せた。
『香水』の主人公を惑わせる、
元カノの心境を勝手に想像して書いてみたのだ。
歌はハモっているのだが、歌詞は微妙に違うことを言っている。
そういう試みをした人は他にいなかったので、
これが自分でも驚くほどバズった。
最後に見た時の再生回数は160万回を超えていた。
コメントもたくさんつき、チャンネル登録者も増えた。
といっても3000人ぐらいのものだったが、
ようやく収益化のハードルは超え、
マネタイズの兆しが見えるかというところまできた。

ところが、YouTubeには著作権の壁があったのだ。
瑛人の原曲音源にそのまま自分の歌を重ねた私の動画は
著作権の自動検知に引っかかり、
公開停止までは免れたものの、
再生による広告収入はすべて著作権者のものとなった。
当たり前である。
私はまたしても現実に目覚めることとなり、
あわよくばスマホ一本で儲けようなどという
愚かな夢を見ることもとうとう諦めるに至った。
折しも娘を授かり、
再婚後の暮らしを考え始めた時だった。

とはいえ、私のポエム魂はいまだに潰えてはいない。
だから性懲りもなくこうして文章を書いている。
ダサくても、恥ずかしくても、
私の心はポエムと共に育ってきてしまったのだ。
そのことを受け入れずして、私に自己実現の未来はない。
そう思いながらこれを書いている。

ちなみに私のポエム人生には、
苦々しくも実母の影響が色濃いことを認めざるを得ない。
思い起こせば10代の頃、
実家の本棚には『詩とメルヘン』があった。
天下のやなせたかし大先生が編集長を務めた文芸雑誌である。
そして思春期の私が最も影響を受けた本の一冊として、
『ガールズ』という本がある。
副題に「青木景子詩集」と書かれていた。
『詩とメルヘン』と同じサンリオ出版からなので、
おそらく派生本だろう。

私は母に「この本どうして持っていた?」と尋ねたが、
「??私の本棚?記憶にない・・・」とのことだった。
どうしてだ。

この記事が参加している募集

自己紹介

転職体験記

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?