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吉田松陰という男

今日は吉田松陰について書いていく。参考文献は「世に棲む白日」という司馬遼太郎の作品。ただ一つ注意があって、司馬遼太郎の作品は歴史小説であるので歴史通りに書かれているわけではない。歴史に基づいた小説なので誇張や司馬遼太郎の解釈が入っている。
なので歴史上の吉田松陰の姿ではなく、「世に棲む白日」の中の吉田松陰を書くのでそこは前もって断っておく。

1.吉田松陰の人生

吉田松陰といえば松下村塾が思い浮かぶだろう。だが、この人が行ったことはそれだけではない。簡単に吉田松陰の人生を振り返ろう。

吉田松陰は天保元年(1830年)に長州藩萩で生まれた。5歳で吉田家を継ぐ。幼いころから玉木文之進という叔父から引くほどのスパルタ教育を受けた。こんな話がある。松陰が勉強中に頬に蚊が止まった。松陰が虫を払いのけたところ玉木にぶん殴られた。その理由が「虫に刺されてかゆいという感情は私的なものだ。学問は公のものだから公私混同するのはよくない」ということらしい。

(このペースで書いてたら日が暮れるので省略します、、、)

全国各地を旅し、各藩の有識者に会い勉強しまくる。

黒船来航にとてつもない衝撃と危機感を覚え、黒船に乗り込みアメリカに渡ろうとして投獄

投獄中に囚人全員をまとめ上げ、更生させてしまう。

松下村塾を始め、高杉晋作・久坂玄瑞・伊藤博文など明治維新で活躍する志士たちを育てる。

安政の大獄にて処刑される

という感じ。

2.吉田松陰の特徴

この本を読んで俺なりに吉田松陰という人の特徴を3つにまとめてみた。

”飽くなき知識欲”

松陰はもともと明倫館という藩校の教授で秀才であった。しかし、日本を見てみたい、もっと広い世界を知りたいということで長崎や江戸に留学し、のちには全国を放浪した。
その中で各藩の知識人と会い、教えを乞うことで自分の学問や考え方を確立していった。さらには初めて行く土地の地形にも目を配り、軍事戦略上どのように外国を迎え撃つかという視点で常に観察していた。などあらゆる機会を学びの機会と捉えていたというところに松陰の特徴があるのではないか。

”縦よりも横のつながりを大切にする”

これが分かるエピソードがある。
江戸で留学中に他藩の仲間と東北へ旅行しようと計画した。計画直前になり藩の不手際で過書というパスポートがなかったので、計画を延期せざるを得なくなった。しかし、松陰は仲間との約束を反故にすることを恥だと思い、脱藩して旅に出た。
という風に、封建時代には珍しい縦のつながり(藩など)よりも横(仲間)を大切にするという人であった。

”純粋で激情家”

松蔭には良くも悪くも自分の感情にとても素直である。そのことがわかるエピソードが二つある。
一つ目が黒船が来航した時だ。その時受けた衝撃は凄まじく松蔭は、海外に行って文明というものを見なければ日本が侵略されてしまうと強い危機感を持ち、黒船に密航しアメリカに連れて行ってもらおうとした。その行為は鎖国国家である当時の日本では禁忌であり、普通の人は立ち止まるはずだ。結果失敗し幕府に捕らえられるのだが、このことからも日本をなんとかしなければならないという強い危機感のままに行動する激情家であることが分かる。
二つ目は安政の大獄により幕府に捕らえられた時だ。幕府に捕らえられ役人に尋問された時に、松蔭は自分が今までやってきたことや企てていたことを洗いざらい全て話してしまったのだ。その中には老中暗殺計画もあり、そのせいで死刑になったのだろう。役人は松蔭に全てを白状させるために松陰の考えに理解を示し、あたかも信用に足る人物だというアピールをした。その作戦にまんまと引っかかり、役人を信じてしまった。このことからも松蔭は不用心に人を信じ過ぎてしまう純粋な面がわかる。

3.まとめ

いかがだっただろうか。 
私はこの本を読んで、松陰の純粋な日本を外国から守らなければという強い危機感が松蔭を松蔭たらしめたと感じた。それとともに、時世の重要さも感じた。松蔭がもし十年後にその能力を発揮していたらまた今以上に活躍できたのではないかと思う。その当時は松陰の考え方は先進的すぎた。物事がうまくいくかどうかは努力と行動と最終的には運が大事なようだ。

次回は世に棲む白日の続きである「高杉晋作」に焦点を当てて書いてみようと思う。

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