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予想通りの昭和ゴジラ映画『ゴジラxコング 新たなる帝国』

 新年度から仕事に忙殺され続け、頭も疲れ切って迎えた連休初日に観るならこれしかなかったと思う。『ゴジラxコング 新たなる帝国』。忘れないうちに感想を書いておく。予告編以上のネタバレはない。

 結論から言うと、この記事で言いたいことは大きく二つ。一つ目は、「予想通り」だったということ。もう一つが、正しい映画タイトルは「ゴジラxコング」ではなく「コングxゴジラ」だろうなということ。ついでに、どうして予想通りになったのかについて、ゴジラ映画の運命という視点から述べてみようと思う。最後に、次回作が(あるとしたら)どんな内容になるのか、これまた予想しておく。

予想通りの”昭和”ゴジラ映画

 どう予想通りだったかというと、昭和後期のゴジラ映画と同じだったのだ。なぞっていると言っても良いくらいに。

 知らない人のために説明すると、1954年に反核・反戦のメッセージを込めてできた初代『ゴジラ』は、シリーズ化に伴ってマンネリ化し、特に1960年代以降は毎年の夏休みに親子で通う娯楽映画への道を進んでいった。目に見えて興行収入が減っていく中、なんとか観客を引き入れようと奇策を盛り込み、当時人気を博していたプロレスや一発ギャグを取り入れた。ゴジラは時に人間と意思疎通しながら悪い怪獣と闘う。初代のシリアスなテーマを持つゴジラが好きな映画ファンからは「黒歴史」と評価される時代が続いた。
 特に1973年の『ゴジラ対メガロ』は怪作として名高い。ゴジラが人間が作ったロボットと共闘して、最後にドロップキックを見舞う衝撃の内容だった。VHS版やDVD版におまけとして収録された監督らのトークによると、年々興行収入が下がる中、「そういえば今年のゴジラ、どうしようか」くらいの勢いで制作期間なんと3ヶ月で完成させたとか。
 さて、今回の『ゴジラxコング』はまさにそうしたノリのプロレス映画だった。

 英語版のトレーラー映像を見ての通りだ。

 例えば、仲間を持たず孤独に生きるコングが初めて仲間らしきサル(スーコというらしい)と出会う場面がある。これはまさに『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』(1967年)で登場したミニラだ。
 そもそもゴジラと地下空洞と言えば、先にも挙げたメガロだ。地底や海底といった未知の世界にも人類がいるという設定は、50年前のゴジラ映画で既に使い古された内容だ。
 何より、今回の映画タイトルは「vs」ではなく「x」だ。ゴジラとコングが共闘するわけだが、ゴジラが仲間と共闘するのは70年代前半までの夏休みゴジラ映画でのお決まりだ。
今作は昭和時代に興行収入と動員数を下げ続けたあの「夏休みプロレスゴジラ」と数多くの要素を共有していた。前作までのつながりや登場するキャラクター、モチーフからしておそらく製作者も自覚の上で作っているだろう。だからこそ、予告動画を見た時点である程度予想できてしまったのだ。興行収入も同じことにならなければよいが。

正しくは「コングxゴジラ」

 ここまで「ゴジラ」映画として色々述べたが、本編では意外とゴジラが鳴りを潜めている。やはりアメリカ映画、コングの方が愛着があるのだろうか。物語はコングを主軸に進み、物語とはあまり関係ない場面でゴジラがチラッと闘う。最後までこれといった見せ場もない。ネタバレになるので言えないが、ゴジラ映画でお約束の”あのカタルシス”がない!個人的にはこれが一番残念だった。はっきり言って、タイトルは「コングxゴジラ」の方が適切だったと思う程だ。当然ながらコングはサルなので、擬人化(既にもはや人だが)して主人公とすることで物語を作りやすい、進めやすいという利点もあるのだろう。やや穿った見方をするならば、後述するゴジラの本質を描こうとする視点が、製作者側にそもそもないのかもしれない。

どうしてゴジラ映画は同じ道を進むのか――それは厄災であって

 さて、どうしてゴジラ映画は50年前と同じ道を進むのか。それは、ゴジラが「続編を作ることが原理的に不可能な映画」だからだと考えている。

 1954年の無印『ゴジラ』は、水爆実験によって目覚めた放射線を吐く怪獣が日本の都市を蹂躙するパニック映画だった。映画は現実にあった第五福竜丸事件を彷彿とさせ、反戦・反核の強いメッセージが込められていた。ゴジラは本質的には厄災だ。厄災は、人知の及ばない、人の手ではどうすることもできないものだからこそ厄災たり得る。ただしゴジラの場合、人間の罪(原爆)が生み出した人災であるので、人の手によって鎮めるという物語がかろうじて成り立つ。厄災と人間との、ギリギリのバランスによる交感、それがゴジラの真髄だと私は思っている。
 ところが、このような描き方ができるのは1回限りだ。人間が厄災を鎮める神話のような内容は、祭りがそうであるように、一つの方法しか取り得ない。となると、同じテーマやメッセージで続編を作ろうとすると、1作品目と全く同じものしか作れない。そこで2回目以降は、闘わせるしかない。闘いは、人格を持った存在による行為となる。戦闘と人格は切り離せない。人格を持つと、ゴジラは厄災ではなくなる。
 そうなると、人間とは意思疎通できない存在が、人間がそうするように「闘う」というチグハグさを持つことになる。これがゴジラ映画の運命だ。本質は一度しか描けない。続編を作ることが原理的に不可能な映画、それがゴジラなのだ。
 もちろん、レジェンダリーの(というかアメリカでの)ゴジラはここで書いたようなことをそもそも気にかけていないかもしれない。大好きな怪獣がスクリーンで大暴れする、それだけで映画として楽しめるのは確かだ。ところがそれでも、ゴジラの出自は厄災だ。その由来を忘れて、闘いが荒唐無稽の「一線を越える」とき、ゴジラはゴジラである意義を失い、再び眠りにつかなければならなくなる。それがどんなに美しく迫力のある映像で出来上がっていたとしても(あれだけの予算と人があれば映像の完成度が高いのは当然のことで、今日誰も驚かない)。

次回作の予想

 最後に、レジェンダリーのゴジラの続編がどうなるか予想してみようと思う。答えは極めて簡単だ。昭和ゴジラと同じ道を辿るしかないからだ。人間が悪者となって生み出したメカや、地球外の星からやってくる宇宙怪獣はもう前作までに使用済み。
 まずは、これまでに登場した怪獣たちが一堂に集結する「大決戦」。あるいは、人間による過ち(環境破壊や公害)が生み出した存在。このどちらかだろう。
 意外とネタは残されていない。それともレジェンダリーは、”新しいゴジラ”を作れるだろうか。

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