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【1945年5月27日〜】生死の狭間をさまよって②<祖母の手記>

1945年に終戦した太平洋戦争の沖縄戦にてひめゆり学徒隊として動員された祖母の手記です。祖父が聞き取りの上、書き起こしたものを孫の私が再編集しました。
ひとりの女性が生きた1945年の記録を、現代に格納します。

<前回のお話>


<当手記の前置き>

首里より撤退する高官ら

米軍の首里侵攻の日が近付いた5月27日夜、牛島軍司令官や参謀長など軍司令部の高官たちが、物々しい警護のもと首里から私たちのいる津嘉山の経理部壕に撤退してきました。翌28日深夜、再び着剣した警護の兵士とともに何処へいくのか。私たちには知るよしもないが、闇の中に去って行きました。

軍司令部一行が津嘉山を発ってから後の南風原一帯は、いよいよ最前線となり砲弾が絶え間なく浴びせられるようになりました。経理部所属の兵隊たちも前線へ出動するようになり、壕内の学徒隊は負傷兵の看護や食糧受領と多忙を極めました。

<コラム>第32軍司令部壕について【筆者調べ】

第32軍司令部壕は、第2次世界大戦中に大日本帝国陸軍によってアメリカ軍による沖縄侵攻に備えるために首里城の地下に作られた壕群です。工事が始まったのは1944年12月で、1945年3月に沖縄戦が始まる直前まで続きました。司令部は、5月末に日本軍が島の南部に後退するまで、約1ヶ月間使われました。
引用:首里城公園|第32軍司令部壕

当時の記録と祖母の手記とを照らし合わせると、祖母が目撃したのは首里の第32軍司令部壕より撤退してきた高官たちの姿だったのかもしれません。

日本軍が軍司令部壕より撤退する際、壕が侵攻してくる軍によって使用されることがないように、爆薬を爆発させ一部が崩落したと言います。戦後、まだ入ることのできる部分には崩落を防ぐため、鉄鋼の柱や梁が設置され、今日まで姿を残しています。

現在では立ち入ることはできないものの、入口付近までは見学ができます。私が現地に初めて訪れたのは今から5年前くらいのことでした。夏場の強い日差し、青々と茂った熱帯植物の鮮やかさと相反するように、ただ静かに、そこに眠っているように司令部壕はありました。

近くを訪れた際は、ぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか。

南風原一帯より南西へ待避

5月31日、南風原一帯の守備に当たっていた兵士たちがとうとう米軍の火器に圧倒されて後退してきました。日中も機関銃や小銃の銃声が聞こえるようになり、米軍が間近に迫っているのがひしひしと感じられました。このように緊迫した中、学徒隊は南部へ撤退準備をして夜陰に乗じて経理部壕を後にしました。

折からの長雨続きで道路はまるで田圃のようで、ぬかるみに足を取られながら南風原村山川、志多伯(したはく)、兼城(かねぐすく)を通って高嶺に着いたのが夜明け前でした。道々には、いつ果てるとも知らない哀れな難民が、道端に横たわる死体には目もくれず、ひたすら南へ南へとあてどなく列をなしていました。

大里の嘉手志川で小休止、久しぶりに嘉手志川の清水を存分に飲み、再び出発。真栄平(現糸満市)に付いた頃は夜も白々と明け始めていました。

身を隠す壕もなく、数日は丘陵地帯の木の下や岩陰を探して空からの攻撃を避け、夕方静かになった頃、民家の台所を借りて煮炊きをしていました。津嘉山に比べると、ここはまだまだ静かで、夕方には村の共同井戸(樋川:ヒージャー)には水汲みに来る避難民や兵隊で混雑していました。

水を汲んで帰る途中、偶然、見覚えのある兵隊さんに出会いました。向こうも私に気付いたようで、よく見ますと同郷出身のMさんでした。お元気なようで、ただ目礼をしただけでしたが、Mさんは慌ただしく井戸の方へと降りて行きました。

<コラム>祖母の足取りを考える【筆者調べ】

祖母の手記より5月31日の夜に津嘉山を出発し、翌朝には真栄平へ到着したことが分かりました。
現在の地図で考えると、南風原町・黄金森公園を出発し、東風平運動公園を経由、糸満市・嘉手志川に到着するようなルートになると予想されます。

道路整備がされた今日で約10㎞の道のりですが、<長雨続きで道路はまるで田圃のよう>とあるように、足元の状態はかなり悪い様子。砲撃を避けた夜間行動だったこともあり、その道のりは果てしなく感じられたことでしょう。

祖母が久しぶりに清水を飲んだという嘉手志川の湧き水は「恵泉の龍」として、今も残されているそうです。現在では水遊びができるスポットとして整備をされており、地域住民の憩いの場となっているのだとか。筆者も沖縄へ帰った際には、足を運んでみたいと思います。

砲弾が炸裂「ここは危ない! 早く逃げろ!」

6月5日、米軍の攻撃は日に日に激しくなり、隠れ場のない私たち学徒隊は経理部長・佐藤大佐の配慮で山部隊の壕に入れてもらいました。現在の「山雨之塔」の真下にある鍾乳洞で、洞窟内は堅固にできており、広々としていました。そこには経理部の兵隊たちもいたので、ほっとしました。

それから3日後の夕方、状況が少し良くなったので、学徒隊のHさんと私、それに女子軍属2人に下士官2人の合計6人が民家の炊事場を借りて煮炊きに取りかかろうとした時、突然砲弾が炸裂。近くに居た筒井曹長が「ここは危ない! 早く逃げろ!」と大声で叫ぶなり、脱兎のごとく飛び出しました。

弾かれたように私たちも曹長の後を追い避難しましたが、その民家は直撃を受け半壊し、座敷と庭にいた下士官と女子軍属の2人が即死していました。運良くHさんと私、軍属のAさんと筒井曹長の4人は危機一髪のところ無傷で命拾いをしました。

③へ続く