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「高齢者送迎中」というステッカーに思うこと

都内を車で移動していたら、前を「高齢者送迎中」というステッカーの貼られたハイエースが走っていました。僕が最初に思ったことは、「自分が高齢者になって乗る車に、あのステッカーが貼ってあったら嫌だな…」ということでした。でも、もうちょっとよく考えたら、別の景色が見えてきました。

「高齢者送迎中」というステッカー

高齢者の利用する施設の車だと思うのです。「赤ちゃんが乗っています」というステッカーや、「スクールバス」という表示があるのと同じ感じで、「高齢者送迎中」が貼ってあります。

高齢者が乗っているから何なんだ、と言われても困るようだけど、「乗降に時間がかかることがあるのかも」とか「安全運転でゆっくりめの運転をするのかも」とか「乗降のために停車することが多いのかも」とか、そんなことは想起されます。

そう考えると、貼らないよりは貼った方が交通安全に寄与していそうですが、先ほど書いた通りで、最初僕は「自分だったら嫌だな」と感じました。

人生の大先輩を乗せています…?

同じように思う人もいるかな…と似たようなワードで検索をかけたところ、やっぱりそうした問題意識を持っている方々はいるようでした。

ある方は、「高齢者」という表現に冷たさを感じて、「人生の大先輩を乗せています」とか「豊かな日本をつくった方々の送迎車です」みたいな感じのステッカーを自作して貼り替えた、とブログに書いていました。配慮は悪くないけど、僕だったらもっと嫌だな、とも思いました。

でも、その時に思ったのです。自分がステレオタイプな「高齢者」をイメージしているということを。僕には高齢者の知り合いがいます。尊敬出来る方、年齢は離れていても友達付き合いをしている方、ぜんぜん尊敬出来ない方、色々な人がいます。でも、「高齢者」というステッカー表示から想起されたのは、顔の見えない元気のない老いた人々でした。

ステレオタイプを拒否する

要するに僕は、僕みたいな人間に、「高齢者ってこんな感じだろ」とステレオタイプで見られることが嫌だったのだな…と気付きました。

ステレオタイプ、と書きましたが、僕の個人的なイメージと言った方が適切かもしれません。バラエティに富んだ高齢者の方々との関わりがあるのに、僕は「高齢者送迎中」というステッカーから、陰鬱なイメージを連想しました(無礼な話なのですが、連想したのは事実です)。

僕のなかにある顔の見えない「高齢者」という表現に対する、どこか陰鬱なイメージの出所は、まだはっきりしません。でも、その薄ぼんやりとしたイメージが嫌で、ステッカーを貼った人がどうこうでなく、その自分のイメージを勝手に投影して、「高齢者送迎中というステッカーの車には、乗りたくないな」と思ったのでした。これはもう、自分の問題ですね。

人を年齢で評価したり、何らかのカテゴリーに当てはめて表現することには、注意深くあるべきだと思いました。さらに、そのカテゴリーに無自覚に偏見を抱くことがあるなら、さらに注意深くあらねばと思いました。

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