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更新する遺影 2

なぜ写真を撮っているのか、どうして写真でなければいけないのか。そんなことを幾度考えても答えは出ず、写真界の先人たちが「その理由を見つけるために写真を撮り続けている」「写真を撮る意味は死ぬまで分からないかもしれない」という言葉を残しているのと同様に、これまでのわたしもそうだったように思う。

中学生になってすぐ、わたしは学校に行けなくなった。しばらく家に引きこもりながらも、心の中では外に出たいという気持ちがあふれていた。そんなとき、一台のフィルムカメラで写真を撮り始めた。
それからもうすぐ20年が経とうとしている。


もし現時点でひとつだけ答えを出すとしたら。

わたしにとって写真は救いである。

救うという、自分の中からあふれるほど大きな単語を使うのは少し憚られる気もするが、自分のために撮った写真を見て、わたしは救われた。その写真を見て、救われたと言った人がいた。
はたまた、写真や何かに救われるという感覚がまったく分からないという人もいた。

写真は生活の中に根付いているとはいえ、なくても生きていく上で困ることはない。しかし、わたしは写真がなかったら生きては来られなかっただろう。衣食住からははみ出てしまうものだとしても、日々の眼差しや心のすぐそばにある。内側と外側を繋ぐものでもある写真からは、自分の心情や、時には写っている他者のことまでも、すくいとるように感じることができた。何より写真を撮るという行為が、危うかった自分を少しずつ救ってきた。そしてこの写真に救われるという実体験は、わたしの確かな支えになった。

救うことは直接的な手助けに限らず、それは日記を書くような、カウンセリングのような、自分だけのお守りを持つような、そっと背中を押されるような、仲間を見つけるような、そんなことに近いのかもしれない。


感情の小さな機微を見逃さず、手に取り、愛でる。
それは心を見つめることでもあり、温かな肯定のようなものでもある。


何年もずっと、こうやって写真を撮ってきたが、写真に救われるという自分の中にある当たり前の感情は、もしかしたら宝物のような特別なものなのかもしれない。
2022年に、それまでは写真群だった「平凡な夢」という実体験をもとに生まれた作品が、ひとつの形になり完成したことで、わたしは確実に“大丈夫”になり、気づくとその焦点は自分自身から他者へと移ろっているように感じた。


自分のためにあるものが誰かを救える可能性を持っているのだと、写真が気づかせてくれた。
そしてこれからも、写真で自分自身を、そして誰かのことを、救えるのではないかと思っている。

誰かの心に目を向け、そっと背中を押し、手を差し伸ばすようなことができたら。


そんな核心とも言える気持ちが、過去の記憶たちと結びついた。
それが「遺影を撮ること」だった。

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