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◆読書日記.《中村昇『ウィトゲンシュタイン、最初の一歩』》

<2023年4月8日>

<概要>
この本では、中学生や高校生に向けて、わかりやすく哲学を語りたいと思います。
この時期こそ、人生に一番悩み、この世界の難問に正面からぶつかって苦しむ時だからです。
四畳半や六畳の部屋で、私も一人悶々と悩んでいたので、とてもよくわかります。
そういう苦悩につきあい解決する際の手がかりにしてほしいと思っているのです。
かつてそうした経験をして大人になった方々にも、楽しんでもらえればと思っています。

(本書・帯の内容紹介より引用)

<編著者略歴>
中村 昇(なかむら・のぼる)
1958年長崎県佐世保市生まれ。中央大学文学部教授。小林秀雄に導かれて、高校のときにベルクソンにであう。大学・大学院時代は、ウィトゲンシュタイン、ホワイトヘッドに傾倒。
好きな作家は、ドストエフスキー、内田百閒など。趣味は、将棋(ただし最近は、もっぱら「観る将」)と落語(というより「志ん朝」)。
著書に、『いかにしてわたしは哲学にのめりこんだのか』(春秋社)、『小林秀雄とウィトゲンシュタイン』(春風社)、『ホワイトヘッドの哲学』(講談社選書メチエ)、『ウィトゲンシュタイン ネクタイをしない哲学者』(白水社)、『ベルクソン=時間と空間の哲学』(講談社選書メチエ)、『ウィトゲンシュタイン『哲学探究』入門』(教育評論社)、『落語―哲学』(亜紀書房)、『西田幾多郎の哲学=絶対無の場所とは何か』(講談社選書メチエ)『続・ウィトゲンシュタイン『哲学探究』入門』(教育評論社)など。

(本書・表紙袖の著者紹介より引用)


 中村昇『ウィトゲンシュタイン、最初の一歩』読了。

中村昇『ウィトゲンシュタイン、最初の一歩』(亜紀書房)

 自分の中での今年の学習課題、ウィトゲンシュタインのお勉強の2冊目である。

 という事で今回はウィトゲンシュタインの翻訳書を手がけ、ウィトゲンシュタイン『哲学探究』の入門書、解説書も手がけている哲学研究者の手による「中高生向け」の、ウィトゲンシュタイン入門書である。

※ちなみに1冊目としてとり上げたのは岡田雅勝『人と思想76 ウィトゲンシュタイン』
 こちら https://note.com/orokamen_note/n/n257f5daa24bf を参照の事。

 本書は著者が「中学生や高校生に向けて、わかりやすく哲学を語りたい」と冒頭の「はじめに」から語っているように、まだ西洋思想にあまり触れた事のない人に向けてウィトゲンシュタインの思想をかみ砕いて説明している入門書として書かれたものである。

 まずは、結論から申し上げよう。

 本書は、少なくともぼくは「中高生には、全くお勧めしない」という事だ。

 哲学初心者にも、全くお勧めしない。

 ウィトゲンシュタインの思想を勉強したいと考えてる人にも、本書は適切ではないと思っている。

「中村昇っていう哲学研究者は、どんな事を考えている人なのかな?」という、著者個人の事を知りたい方であれば、本書を読んでも問題ないだろう。
 そういう興味であっても、少なくともぼくは定価でこの本を購入してまで読もうとは思わない。

 本稿で主張したい事は、以上である。

◆◆◆

 さて、という事で以下からは、冒頭の結論に至った理由について書いていこうと思う。

 本書は正直、時間をかけてレビューを書くほどの内容の本でもないので「短評」としてザッと書いて後日「短評集その2」のほうに入れてしまえばいいかな、とも思ったのだが、いちおうウィトゲンシュタイン学習については順を追って1冊1冊学習した内容を書いていこうという腹づもりもあったので、面倒ではあるが短くとも1文章として上げておこうと思ったわけである。

 ぼくがここ十年くらいで浴びるほど西洋思想の入門書、解説書の類を読んできて理解しているのは、思想家の入門書として内容をまとめるには「いくつかのパターンがある」という事である。

 ぼくが今まで読んできた思想家の入門書は、だいたい以下の3パターンに分類できると思う。

1)評伝スタイル
 その思想家の生涯を順に追っていく事で、その思想家の思想が構築さて、熟成されていくプロセスを追っていくスタイル。
 主著が複数あり、生涯かけてその思想家の思想が紆余曲折している場合、このスタイルで書かれたほうが分かり易い。
 例えば「何故その思想家は若い頃の自分の考えを撤回したのか?」といった事を説明しやすいのが、このスタイルの特徴でもある。
 その思想家がその時代にその思想を出さねばならなかった理由は何なのか、という時代背景も含めて説明しやすい。また、どういった人物や思想に影響を受けてきたのか、という思想家個人の影響関係の系譜も見易い。
 まだ現役で働いている思想家はこのスタイルは採りにくいが、過去の思想家を総括する内容として、プライベートも含めた個人の情報が出そろっている思想家についてはこのスタイルが採り易い。

2)書評スタイル
 その思想家の主著を中心に説明し、それに合わせて、思想家自身のパーソナリティに迫ったり、その著作が何故その時代や後世に影響を与えたのか、という著作の位置づけを探っていくスタイル。
「この思想家と言えばこの著書だ!」という目立った主著があるタイプなどは、このスタイルが採られやすい。
 カール・マルクスなどはこのスタイルで説明される事が多く、「マルクス入門」よりかは「『資本論』入門」というスタイルの入門書のほうが圧倒的に多い。ハイデガーも『存在と時間』を中心にして説明されるものが多い。
 カントのように著作は多いが、西洋思想の系譜として説明される場合は『純粋理性批判』を中心に、倫理学の文脈で説明される場合は『永遠平和のために』を中心に説明する、といったような入門書もある。
 逆に、サルトルのように普遍的知識人としてあらゆる「状況」に参加し、あらゆる物事にコメントを述べ行動するタイプの思想家は、ただその主著を説明するだけではじゅうぶんではないという場合もある。

3)ワード解説スタイル
 思想家個人の提示した重要概念を中心にキーワードを解説していくスタイル。
 ただし、これについては「思想家個人」を解説している入門書や解説書には、あまり採られるスタイルではない。
「ドイツ観念論」の概要だとか、「実存主義」の概念だとか、「構造主義」の概念だとか、といった大きな枠組みでの思想の流れを解説する場合であれば分かり易く、用いられる事も多いが、「思想家個人」の入門書としてはあまり多くはない。
 思想家個人の重要概念を中心に説明しているものでも「1」の評伝スタイルに沿って説明されていたり、もしくは「2」の書評スタイルに沿って、例えば「『純粋理性批判』に出てくる重要概念を中心に解説していく」といったような形で説明したりする場合のほうが多い。
 そういったスタイルにせず純粋にワード解説にしてしまうと、読みやすくはあるが、まとまりが悪くなるのである。個々のテーマについては語り易いが、けっきょく「個人」に焦点があっていないからである。
 語っている領域が広く、多くの独自な概念を打ち出している思想家などは、例えば芳川泰久・堀千晶『ドゥルーズキーワード89』のようにキーワードを中心に解説したものもありはするが、こういったものは「辞書」的に使われる事が多く、「最初の一歩」たる入門書で使われる事はあまりない。

 本書のスタイルはこのうちどれに当て嵌まるかと言えば、「3)ワード解説スタイル」という事になるだろう。
「ワード解説スタイル」とは言っても、本書では必ずしもウィトゲンシュタインの重要概念を全て挙げて説明しているわけではない。

「重要概念」を採り上げているというよりかは、ほとんど著者による「気ままなテーマ語り」だと言ったほうがいいだろう。

 そういうスタイルで、上記の「3」に書いた「入門書としての欠点」になるものは、ほとんど本書に当て嵌まってしまっているのである。

 本書ではウィトゲンシュタインの生涯についてはあまり解説されていないし、主著についてもきっちり説明しているわけではない。

 そういった形なので、本書読み終わってから改めて「ウィトゲンシュタインとはいったいどんな思想家だったのか?」という事を思い返してみても、ボンヤリとしていて全くイメージが湧かない。

 それだけでなく前期思想の主著である『論理哲学論考』とは、けっきょくどういった内容で何を主張している著作だったのか?後期思想の『哲学探究』とはどんな内容だったのか?……というのもボンヤリとしたイメージしか読者に伝えられていない内容になっている。

 要するに、この本全体でウィトゲンシュタインを総括する説明がないのである。

 読者は本書で、割とくだけた口調によって、著者の「ウィトゲンシュタイン、テーマ語り」に付き合わされるのである。

 何よりもマズイのは、本書が入門書として「難しい」という事である。

 ちなみに、この場合の「難しい」というは、「難解な書き方をしているから」ではない。書き方自体であれば、平易で軟らかく、確かに中高生でもとっつきやすいだろう。

 しかし、この際はっきり言ってしまおう。「難しい」というのは、本書の解説の仕方が「不適切」だから「難しい」と言っているのである。

 何がどう不適切なのか。具体的に本文を引用してご説明しよう。

 以下は、本書の中でぼくが最も首をひねった箇所である。
 著者は以下の文章でウィトゲンシュタインの「文法批判」について、著者なりにかみ砕いて説明を試みている。少々長い引用だが、書き方自体は平易なので、目を通して頂ければ。

「空気」と「機械」と「愛情」と「動物」といった二字熟語を考えてみましょう。どれも同じ漢字という形をしていて、しかも二字ですので、つい同じようなものだと思ってしまいます。でも「空気」と「機械」では、水と油くらい違いますし、「愛情」と「動物」とでは、これまたずいぶん違います。
 たとえば「空気」という語は、もっと気体的なあり方(よく見ないと見えないような薄い文字で書かれていて、ときどき消えるとか)をしていて、「機械」という語は、もっと個体的でごつごつしたもの(硬くて、触ると痛いごわごわした文字)であるならば、見て触れば、その違いはわかるでしょう。「愛情」と「動物」だって同じです。「愛情」という語は、ものすごく真っ赤な色をしていて濃く渦巻いていて、「動物」という語は、獣のような臭いのする軟らかい文字だとすれば、これまた、「愛情」や「動物」のことが、文字を見て嗅いだだけで何となくわかるでしょう。
 ところが、われわれが使っている語は、そのような特徴はもっていません。一律に、同じ漢字の姿をこちらに見せています。その違いは、文字や音からは、まったくわかりません。そういう文字を小さい頃から無数の機会に使っていると、同じ姿の言葉の背後には、同じ事柄が潜んでいると、つい無意識のうちに思ってしまうのではないでしょうか。これが、言葉の「文法」という陥穽です。この落とし穴に知らず知らずのうちにはまっている可能性が高いのです。
 たとえば「この部屋には空気がある」という文を考えてみましょう。これは、もちろん間違った文ではありません。その通りです。物質としての「空気」が、この部屋に充満しています。ところが、「この部屋には椅子がある」という文を、この文の横に並べてみると、どうでしょう。こちらの文も、間違ってはいません。部屋のなかに物体としての「椅子」がぽつんと置いてあるからです。ところが、この二つの文を並べてみると、「この部屋には~がある」という構造が同じです。そして一箇所だけ「~」の部分が違うだけなので、つい「空気」と「椅子」が、同じようなものだと思ってしまいます。しかも、何度も言っているように、「空気」と「椅子」は、同じ二字熟語です。でも、当たり前ですが、「空気」と「椅子」は、まったく違いますし、それぞれが「ある」ということの意味も、全然違います。ところが、こうして同じ構造の文にしてしまうと、何だか「空気」と「椅子」が同じものであるかのような気になってしまうのです。

本書P.99-100より引用

……如何だっただろうか?

 この説明で、著者が言いたい事に納得いった方がどれほどいたのだろうか。
 ぼくには、さっぱり分からなかった。

「この部屋には空気がある」
「この部屋には椅子がある」

 このような二つの文章を並べてみて、「空気」と「椅子」のことを「同じものであるかのような気になってしまう」事など、今まで生きてきて一度としてなかった。
 こんなおかしな事を言っている人など今までお会いした事がなかったので、最初にこのくだりを読んだ時は、もしかして著者はぼくの理解を越えた高度な議論をしているのではないか、と訝しんでしまったほどである。

 少なくとも、これが「中高生向け」に書かれた説明だとは、ぼくにはとても思えない。

 それだけでなく著者は、上記の考え方の補足として、ウィトゲンシュタインの『哲学探究』の308節に記載されている「心のなかの出来事」を例にとって説明するくだりで、このパターンも同じく「まるで、「空気」が「椅子」と同じ固体的なあり方をしていると思い込んでしまうのと同じように錯覚してしまうのです(P.101)」と説明しているのである。

 ぼくは「「空気」が「椅子」と同じ固体的なあり方をしている」と「思い込」んだ事など、一度としてない。

 空気は、どのような構造の文章の中に出てきても「気体」的なあり方としてのイメージ以外の言葉として見た事などない。

 例え「空気」という単語が「ごわごわ」していようと、「獣のような臭い」がしていようと、「真っ赤な色をしていて濃く渦巻いて」いようと、「空気」は「空気」以外の何者でもありはしない。

 と言うか、そんな思い込みをした人などいるのだろうか? この辺りの解説は、自分にはほとんど詭弁的なものにしか思えなかった。

 こんな不可解な事を言っているにもかかわらず、著者は「この落とし穴に知らず知らずのうちにはまっている可能性が高いのです」「同じものであるかのような気になってしまうのです」等と、まるで「そういうものなのです」とでも言うかのような言い方をするのである。

 これをぼくが中高生の時に読んだとしたら、さして多くは考えずに「まあ偉い哲学の先生が言っている事だから、そういう事もあるのかな?」などと、首をひねりながらも著者の説明に納得していた事だろう。

 このように、本書の解説は「難解」なのではない。
 本書の解説の仕方が「不適切」だから「難しい」のである。

◆◆◆

 本書の解説の仕方が「難しい」というのは、AMAZONなどのレビューを見ても、何人かのレビュアーが指摘している所でもある。

 本書の解説の全てが上の引用箇所のレベルで不可解なものになっているかといえば、必ずともそうではない。分かり易い説明もいくらかは見られる。

 だが、ウィトゲンシュタイン思想の中でも高度な議論になればなるだけ、著者の説明は説得力が薄くなる。

 例えば『論理哲学論考』では「永遠とは、はてしなく時間がつづくことではなく、無時間のことであると理解するなら、現在のなかで生きている者は、永遠に生きている」とあるらしいが、このくだりに対する著者の説明はやや詭弁めいて聞こえ、これでは「中高生向け」等と言っても納得してもらえないだろう。

 また、ウィトゲンシュタインにおける「論理」の扱いを称して、著者は「この世界の「骨組み」のようなものでしょうか(P.24)」と説明しているが、これも「中高生向け」というには紛らわしい例えだ。
 まだぼくが前回読んだ岡田雅勝『人と思想・ウィトゲンシュタイン』のように、『論考』の記述に従って順を追って説明し、「世界の写像」とまで説明したほうが良かった。

 本書の中で、何度も出てくるウィトゲンシュタインの重要概念の一つが「言語ゲーム」なのだが、この説明は、何度も出てくるだけに比較的分かり易くはなっているが、これについてさえ「中高生向け」としては誤解を与えやすい、極めて紛らわしい書き方だと感じる。

 そして、そのような日常的な言葉のやりとりを、ウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」と呼びました。誰でも手軽に普段からおこなうことを指す「ゲーム」なんて言葉を使うのは、とてもウィトゲンシュタインらしいと思います。いっさい難しい言葉は使わない哲学者なのです。私たちに身近な「ゲーム」のようなものとして、言葉を使った活動も存在しているというわけです。そして私たちは、いつもすでに「ゲーム」をしている。言葉を使って日常的に「ゲーム」をしているのです。

本書P.64より引用

 このように「言語ゲーム」については何度も「ゲーム」だと言っているのだが、現代の中高生にとって「ゲーム」と言えばプレイステーションやニンテンドースイッチといった、コンピューター・ゲームの印象のほうが圧倒的に強いだろう。

 それに対して、ウィトゲンシュタインの想定にある「ゲーム」とはチェスのようなゲームである。

 要は、現代日本人の持っている「ゲーム」という言葉のイメージが広がりすぎて、「ゲーム」などという一言で済ませていい言葉になっていないのである。

 で、この「ゲーム」という言葉について、著者はほとんど定義せず、かみ砕いて説明しようとせずに話を先に進めてしまうのである。

 それではいったい、ウィトゲンシュタインの想定していた「ゲーム」とは、「ゲーム」のどういった要素の事を言っているのか。

 遊戯性の事?競技として勝ち負けの判定できるもの?きっちりとルールがあるもの?それとも、ゲーム性を持ったもの全てを指すのか?……「中高生向け」の入門書で、この手の重要概念の定義を疎かにしてしまうというのは、ぼくには全く受け入れられない感覚だ。

 このように、本書では議論はさして深まらず、比喩が上滑りしたまま次の話題に飛んで行ってしまうのである。これではダメだ。

◆◆◆

 以上、見てきたように、本書ではウィトゲンシュタインの持っていた31のテーマについて、著者が気ままに語っている「エッセイ風テーマ語り」であり、その説明の仕方は「中高生向け」としては不適切で、入門書としてもまとまりが悪い。

 という事なので、これを哲学の初心者が読んでも参考にはならないだろう。

 本書で説明される瑣末な議論の知識がいくらか手に入る程度で、ウィトゲンシュタインの体系的な知識が手に入るわけではない。西洋思想のまとまった知識も手に入るわけではない。

 初心者だったら、もっと他にいい入門書がある。わざわざ本書にあたる必要はない。

 何度も言うように、中高生が本書を読んだら、著者の不可解な説明を「そういうものなのですよ」といったようなマイルドな語り口でムリヤリ納得させられてしまうか、読後モヤモヤしたものを抱えて消化不良となる事だろう。
 いずれにしても余計な先入観を持ってしまうので、「最初の一歩」として本書を読んではならないだろう。

 ゆえに、冒頭の「"中村昇っていう哲学研究者は、どんな事を考えている人なのかな?"という、著者個人の事を知りたい方であれば、本書を読んでも問題ない」という結論に至ったわけだ。
 中村昇個人の哲学エッセイ的な読み物として読み流すぶんには、わりと気軽に時間を潰せるかもしれない。


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