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【超短編小説】春風と去る

 私は今春大学を卒業する。私は1年生のころから付き合っているひとつ上の彼と、2人にしては少し手狭なアパートの一室を借りて同棲していて、彼の愛煙する煙草の匂いが染み付いている。駅から少し離れているこの物件は、普通の人からすれば不便の一言で済まされるだろう。でも私にとっては、同棲する前は彼と一緒に居られる時間が増えたみたいに感じて、雨の日は特に特別だった。

 小学生みたいに心の中ではスキップして、彼の横顔を見上げて、ちょっと広い肩から伸びる腕に時折触れるドキドキを抑えながら歩いていた。中でも、4月終わりの桜が落とされていく春雨の日。その日はふたりとも傘を忘れて、大学のコンビニでビニール傘を買って差して歩いた。些細な出来事かもしれない。でも、彼の家に近づいてきて、人通りも少なくなったころ、傘に雨粒に包まれた花弁が雪みたいに降り積もっていく様子を見て「曇天に桃色のプラネタリウムだ」なんてクサイ台詞を吐いた彼。そのちょっと照れくさそうな、きっと私くらいにしか言わないであろう恥じらい混じりの言葉がなんだか嬉しかったのをずっと覚えている。

 別に、きっと一段と煌めいた、SNSに載せるような日は過ごしていなかったと思う。高い宿も、高級店の宝石も、テーマパークの特別プランも、背伸びした食事も、多分してない。友達には「それ、あんたのこと大事にしてないよ! 私の彼なんか!……」と、苦言を言われたこともある。端から見ればそうかもしれない。それでも私は幸せだった。私にとっては、ふたりだから楽しいんだと思える一つひとつが大切に積み重なって、それがダイヤモンドみたいに時間をかけて、『ふたりのかけがえのないもの』にでもなっていけば、それが幸せだったから。

 そして今日、私の大学卒業を待つ形で明日引っ越すことが決まっていたため、彼が仕事に出ている間、私は最後の引っ越しの準備を進めていた。だから部屋の中は段ボールと最低限の調理器具くらいしかなく、すっからかんだ。残った荷物を段ボールにしまうたび手狭に感じていた部屋の、意外と広かったことと寂しさを同時に実感した。私は思い出に浸りながら作業を進めていたため、かれこれ夕方も通り過ぎ、先ほど彼が帰宅したところだった。

「もう卒業決まったし、この家も引っ越すし、そろそろいい頃だと思ったんだよね。僕らふたりの関係を見直しても」

彼の、「ただいま」よりも先に出てきた言葉だった。とても真剣な表情で、真っ直ぐ私の目を見つめて言われた言葉だった。聞いた途端、私は友達の忠告を思い出して、悲しくなって、しばらく無音が続いて、重たい空気だったと思う。

「……今までのことを考えても、この関係で居続けても何も変わらないから」

彼の次の言葉。私は泣いていた。彼なりに私との関係を考え続けてくれていた結果なんだろうと、私は唇をギュッと噤んだまま震えながら泣いていた。

 はっきりしない視界の中、私は立ったまま電気が点いていない玄関をジッと見たまま泣いていた。彼はそんな私に触れることもなく、黙ったまま物音を立てていた。

 そして今、私はさらに視界が霞んで、異常なほど目が熱くなっている。泣き声ももっと大きく、赤ん坊みたくなっている。

「ごめん、こんなに泣かれちゃうとは思わなくて……」

彼が私を温める。

「今までのふたりからさよならしませんか?」

ほんの数秒前にその一言と一緒に、私の左手に触れて、私の薬指の2.5㎜を銀色に冷くした彼が、ずっと抱いたまま離してくれなかった。


【あとがき的な】
たまには王道。いやいつも王道か……(トホホ)
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