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聖徳太子の法治主義 「韓非子」の思想

聖徳太子があらわした「十七条憲法」には、法家思想の影響があると言われています。

法家思想は儒教と截然と分ち難いが、信賞必罰を説き、訴訟の裁断に偏頗があってはならないと言う所などは、多分に法家者流の言であろう。

坂本太郎著「聖徳太子」(人物叢書・吉川弘文館)P.94

十七条憲法の十一条では、「賞罰を明らかにすべし」と記されています。
これは、当時の「この頃、賞は功においてせず、罰は罪においてせず」という状況を踏まえているのでしょう。
功績が無くても賞せられ、悪事が行われていても罰せられることなく、野放しになっていたという信賞必罰が適正に行われていなかった実態が垣間見えます。
聖徳太子が定めたと言われている「冠位十二階」も、身分に関わらず優秀な人材を登用するシステムです。
それまでは、身分によって地位が決められてしまう氏姓制度が行われていたため、特権的地位が世襲されることが当たり前の時代でした。
そのため、貴族であれば悪事をはたらいても罰せられることもなく、目立った功績がなくても賞されることなどは、よくあることだったのでしょう。
聖徳太子が定めた「十七条憲法」や「冠位十二階」は、そのような風潮を断ち切り、法による厳格な国家運用を目指したものです。

中国の法家思想の代表的な文献として、「韓非子」をあげることができます。
この「韓非子」には、「賞罰を明らかにすべき」とする文言が記されています。

治強は法に生じ、弱乱はに生ず。
君、ここに明らかなれば、則ち賞罰を正して下に仁なるに非ざるなり。爵祿は功に生じ、誅罰は罪に生ず。

(現代語訳)
国がよく治まって強くなるのは、法を守ることから生まれ、反対に弱くなって乱れるのは、法をゆがめることから生ずる。この道理をわきまえた君主は、賞罰の施行を厳正にするばかりで、下々しもじもに仁愛を施すようなことはしない。人の爵位や俸禄は功績があってこそ与えられ、刑罰は罪を犯したからこそ下される。

金谷治訳註『韓非子』(下・岩波文庫)第35外儲説がいちょせつ右下篇P.197~198

聖徳太子は、仏教を広めたことから、慈悲深く穏やかな人というイメージをもたれることが多いかもしれません。
しかし、仏の慈悲だけでは、国を治めることはできません。
一人の為政者として、国の秩序を保つためには、悪事に対して、毅然とした態度で法を執行し、厳罰に処することも厭わない敢断さが要求されることも多いはずです。
政治の世界では、今も昔も変わることなく、その特権的地位を維持することばかりに力を注ぎ、私腹を肥やす者たちが大勢いたことは間違いないでしょう。
だからこそ、「十七条憲法」が定められたのです。

人は常に多面的な要素を持ち合わせています。
そこには、優しさと厳しさ、温情的な態度と厳罰を処す部分が併存していたに違いありません。
人は、人間としての器が大きいほど、その振り幅も大きいものです。
聖徳太子は、若い頃、何度も戦場に赴いていたことが伝説として残っています。
とかく、自分にとって都合の良い面だけを見て、その人物を語ろうとしてしまうのが世の常です。
聖徳太子のことを思い浮かべる時も、穏やかな宗教者のイメージばかりに注目が集まることが多いのですが、腐敗していた当時の豪族政治の世界を厳しく治めていこうとした為政者としての一面にも、もっと目を向けるべきなのかもしれません。


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