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『自然法』と『儒教』 【J・ロック『統治二論』】

『自然法』とは神の意志の宣言であり、
万人に対して永遠の規範として存続する。

立法権力はコモンウェルス(政治的共同体)の最高権力であるが、
立法権のもつ権力は自然法が与えた権力だけであり、
その範囲も社会の公共善に限定される。

ジョン・ロック『統治二論』加藤節訳(岩波文庫)

英米法では、伝統的に市民社会(=政治的共同体)を前提とする「市民法(civil law)」を重視します。
あくまでも形式的なものでしたが、ローマ帝国においても、ローマ市民による民会の決議がないと、ローマ皇帝になることはできませんでした。
「市民の権利と義務は、市民の意思と自主性によって決する」というのが、西洋社会において、2000年にわたって守られてきた伝統です。
ここに「立法権の最高権力性の原点」があります。
議会制民主主義原理に基づく立法権の最高権力性は、市民社会における「市民法の伝統」に基づくものです。
そして、この市民法は「『自然法』による制限を受ける」というのが、ジョン・ロックの理論です。
なぜなら、「『自然法』というものは、神の意思によるものであり、万人にその規制が及び、永遠の規範として存続するもの」だからです。
「人は、神の法をおかしてはならぬ」とするテーゼが『自然法の原理』です。

『神の法』とは東洋的に言えば、『天の法』と言い換えることができるでしょう。
儒教の聖典である四書五経の一つである『礼記』の中庸(第三十一)の中で、以下のような一文が最初に掲げられています。

天の命ずるこれを性とひ、
性にしたがうをこれ、道とひ、
道をおさむるをこれおしえと謂ふ。
(天命之謂性、率性之謂道、修道之謂教。)

漢文大系十七巻『禮記』(富山房)

『天』とは人間を超越した「宇宙的造物主」といった意味合いであり、人格的主宰神を想定するのが、東洋の伝統です。
その考え方の下では「人間は、天の意思には逆らえない」とされます。
天の意思に逆らうと「天変地変」がおこります。
人が天の意思に逆らうから、地震や火山の噴火、洪水や日照りによる飢饉などの『天罰』が下されると考えるのです。
従って、「人間は、天の意思である『天命』に服する」というのが儒教が目指すところです。
先ほどの「天の命ずるこれを性とひ」の『性』とは、「天性」「本性」のことであり、英語でいう「nature」に近い概念です。
自然法は「law of nature」ですから、冒頭のロックの主張に当てはめると、
「『人の本性・天性』(nature)の法(law)というものは、神の命ずるところである」という解釈も成り立つでしょう。

人の性質や性格というものは、「はたして善なのか悪なのか」という『性善説』と『性悪説』の激しい対立がありました。
しかし、結局のところ、現代では、孟子のいう『性善説』が学問の主流をなしています。
そこで、人が『道徳』として服するのは、この「天の性・本性」であり、『天の法』とも言えるものです。

ロックが定義した『自然法』は「公共善を実現するもの」です。
なぜなら、自然法は「神の法」であり、神は「最高善」だからです。
キリスト教でも、「人は神の子だ」という教えがあります。
キリスト教であれ、儒教であれ、
「人の道とは、神の定めた法(=『天の法』)により
 社会に公共善を実現する道である」
ということに変わりはありません。

神は最高善ですから、人に悪を命じるはずがありません。
「神の『最高善』を地に実現するからこそ、
 立法権力に最高権力を与えた」
とするのが、西洋における『自然法』の伝統です。
一方で、儒教では、
「人の生きる道とは、
 天の命ずる法(=『最高善』)を
 地に実現する道であり、
 これが『人の天性・本性』である」
としています。

このように見ていくと、『儒教』が目指す理想の世界と、『自然法』が実現しようとしている社会には、地域や時代背景、拠り所とする教えの違いはあれども、同様のことを表しているのかもしれません。



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