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「宋学入門」近思録について 鴻鵠先生の漢学教室 3

中国では十一世紀の宋の時代、四人の思想家があらわれました。周濂渓しゅうれんけい(1017ー1073)・程明道ていめいどう(1037ー1085)・その弟子の程伊川ていいせん(1033-1107)・張横渠ちょうこうきょ(1020ー1077)の四人です。

日本では平安時代の中期、藤原道長・頼通の摂関政治から白河上皇の院政期に相当します。この四人の思想家の著作は「近思録」という本にまとまっています。「近思録」は江戸時代、朱子学の教科書として藩校で使用されました。特に、昌平坂学問所という、幕府直轄の学問所では「近思録」は教科書となり、武士の必須の書となりました。

昌平坂学問所は東京開成学校となり(1868年)東京大学となります。今でも、東京大学には「近思録」が学問の伝統として残っているのです。

「近思録」巻の一「道体篇」第一章、「太極図説」は ”濂渓先生曰く、無極にして太極あり”という言葉で始まるもので、後世に大層影響を与えたものです。「無極にして太極あり」この言葉だけで、何十何百という議論や書が沸き上がったのです

特にこの「近思録」の書の編集に携わった、南宋時代の朱喜(1130ー1200)は「近思録」をベースに独自の哲学体系を生み出し、日本にも大きな影響を与えました。「近思録」の最も重要なポイントは「聖人学んで至るべし」というコンセプトです。

為岳大要編(巻ノ二)にある言葉は、「伊川先生曰く、がくは以て聖人に至るの道なり。聖人学びて至る可きか。曰く、しかり」というものです。江戸時代、二百年刊、為政者でもある武士の基礎学問が、この「学は以て聖人に至るの道なり」にあるのです。(三浦國雄著「朱子語類」抄 講談社学術文庫にも第二章 聖人学んで至るべし とあります。)

このコンセプトを更に発展したのが、明の時代の王陽明(1472ー1528)なのです。十六世紀に生きた王陽明は、宋学のおよそ三百年から四百年後の人です。

明の時代は科挙の試験は全て朱子学の解釈で成り立っていたので王陽明も、朱子学に精通していました。しかし、王陽明は科挙の試験が受かっただけで満足する人ではありませんでした。更に学問修行に努め、大きな疑問にぶちあたったのです。

朱子学は理気二元論といって、一つ一つ物の理という窮めていって天理に通じるという理念があります。これを格物かくぶつ窮理と言います。ところが一つ一つの物の理を窮めても、心理を悟り体得したという実感がなかったのです。最後は病で倒れるほどのなったのです。

その時に、心理というものはものにあるのではなく、心の中にある、心即理を悟ったのです。人の心の中にある神性・霊性・聖性が天の理である良知を体現することを悟ったのです。陽明学が聖学である所以はここにあるのです。

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