鴻鵠(おおとり)@私学受験の先生

私学受験(中学・高校・大学)に携わって30年以上 進学塾→家庭教師として受験指導をして…

鴻鵠(おおとり)@私学受験の先生

私学受験(中学・高校・大学)に携わって30年以上 進学塾→家庭教師として受験指導をしています。 趣味は読書(古書集め含む)

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中学受験の意味と意義

4月になると、どの小学校でも新学年が始まります。 この春6年生になった小学生は、今気分も新たになっていることでしょう。しかし今年の中学受験は、もう既に始まっている…

瑠璃殿上知識なし。ガラスのステンドグラスの宝玉に彩られた水晶宮の様な御殿では理論や概念を振りかざす人は居ません。知解は妄念妄想であり、知識は使い捨てられたゴミのようなものです。清浄無垢の極楽浄土に言葉はありません。天上天下唯我独尊の歓喜と法悦だけです。碧巖録より。

山河不在鏡中観。鏡に映る映像に実体はありません。人の想い描く心中の映像も同じです。ところが人は目の前に実在する実物の山河を見ようともせず自分の思い描いた映像を実物と勘違いして生きています。本物の山河は鏡の映像の中にはないのです。自分に都合の良い思い込みを捨てれば本物が見えてきます

六祖慧能禅師は文字も読めない田舎者だったのに五祖弘忍禅師の法嗣として衣を授かったため反感をかい何百人もの人に衣を奪われそうになります。追手の中で慧明禅師だけが衣より正法を求めていたので授けたのが、不思善、不思悪、正与麼時、如何是上座本来面目でした。慧明は大悟したそうです。六祖壇経

和敬清寂。寂とは本来、死を意味します。涅槃寂静です。しかし、死をも肯定的に受け入れる事で寂滅為楽とするのが悟道に達した達人の境地です。明日は戦場で髑髏を野ざらしにするかもしれない覚悟で一服の茶を今楽しむのが本当の和敬清寂です。死の覚悟もなく生の楽しみを貪るのは本物ではないのです。

拈華微笑。御釈迦様は霊鷲山で説法された時、黙って花を捧げました。迦葉尊者だけがにっこりと微笑みました。その時お釈迦様が、吾に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門有り。不立文字、教外別伝、摩訶迦葉に付嘱す、としたのです。真実は言葉では伝わらないのです。これが禅の真髄です。無門関

若い頃の徳山禅師は金剛経の学僧でした。南方の経文にないことを語る禅宗という邪宗を退治してやろうと山のような注釈書を抱えて洞庭湖の辺の町までやって来ました。ところが茶店のお婆さんに金剛経のことを聞かれても答えられない己れを恥じて山のような書を焼き捨てたそうです。書に真実はないのです

本来の面目は、即ち吾が聖門の所謂良知なり。伝習録では禅語を用いて良知を説明することがよくあります。陽明学の理解に禅の理解は必要不可欠なものです。良知を致すとは本来の面目を発揮させることでしょう。この点からしても知行合一が単なる知識の実行ではなく良知の仏性を実行することだと言えます

香嚴撃竹。香嚴禅師は学問を好み学識深い秀才でしたが知識でない処の生まれる前の一句を言え!と師の潙山禅師に問われ茫然としていました。遂に絶望した香嚴は師の下を去り慧忠国師の墓守りで生きる決意をしたのです。庭掃除をしていた時、小石が竹に当たった瞬間大悟し師に深く感謝したそうです。

本来無一物、何れの処にか塵埃あらん。文字の読めない慧能禅師はこの偈で五祖弘忍禅師の法嗣となり六祖となりました。人が生まれつきもっている仏性というもの聖性、神性の純度の高さを見事に表現したものとして歴史に残つています。文字や言葉よりも生活修行が大事だとされる一例となっています。

生まれたばかりの赤ん坊に六識はあるか?こう問われた趙州禅師は急流の上で鞠をつくようなものさ、と言ったそうです。般若心経では無色声香味触法と言いますがそんなことは百も承知です。そんな理論仏教は急流で鞠をつくぐらいありえないことだ、何の役にも立たないと言いたいのでしょう。実相無相です

一株の大樹、天下の陰涼となる。若き臨済禅師の大器を見抜いた睦州禅師の言葉です。随処に主となれば立処皆な真なり、赤肉団上に一無位の真人有って常に汝ら諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は看よ看よ。自性仏性の自立性、主体性を宣言する言葉が大樹となって人人に一服の陰涼材を与えています

無功徳。梁の武帝は、寺を造営したり、僧に供養し、斎会を開催し、布施を施すことが自慢のようでした。達磨太子にどれほどの功徳があるかと尋ねました。そんなものは何の功徳にもならない、と。武帝は嘆き恨んで、達磨太子を国外追放にしたと六祖壇経に記されています。自性仏性の悟りは無形のものです

聖学晦くして邪説ほしいままなり。伝習録によれば権力欲に満ちた覇道政治が横行することで聖人の道が衰退したとあります。邪説とは記誦の学、訓詁の学、詞章の学などのことです。文字の形式にこだわり、人間性の内実を疎かにする学問です。口先だけの覇術で世を支配する覇道政治が世を惑わすのです。

格物致知。陽明学に於いては、ものをただして知をいたす、と読みます。ものとは物質では無く心の中の邪心や邪念欲心のことです。そのために良知を致すのです。人の聖性、霊性、神性を発揮して邪心邪念を正すことが格物致知です。山中の賊を破るは易く心中の賊を破るは難しという心即理がこれです。

庭前の柏樹子。如何なるか祖師西来意という僧の問いに対する趙州禅師の答えです。僧は何か崇高な理念か深遠なる理論でも期待していたのでしょう。人境倶に奪う絶対無、絶対自由の普遍平等の世界を提示したと言われています。音も無く香も無く常に天地は書かざる経を繰り返しつつ、明歴歴露堂堂なのです

中学受験の意味と意義

中学受験の意味と意義

4月になると、どの小学校でも新学年が始まります。
この春6年生になった小学生は、今気分も新たになっていることでしょう。しかし今年の中学受験は、もう既に始まっているのです。

どこの塾でも、2月が新学年スタートの時です。
2月1日から、東京の御三家を始めとする中学受験が始まるからです。
その受験が一段落した2月10日頃から、新6年生としての授業が始まっているのです。
算数では「整数論」「規則性」

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瑠璃殿上知識なし。ガラスのステンドグラスの宝玉に彩られた水晶宮の様な御殿では理論や概念を振りかざす人は居ません。知解は妄念妄想であり、知識は使い捨てられたゴミのようなものです。清浄無垢の極楽浄土に言葉はありません。天上天下唯我独尊の歓喜と法悦だけです。碧巖録より。

山河不在鏡中観。鏡に映る映像に実体はありません。人の想い描く心中の映像も同じです。ところが人は目の前に実在する実物の山河を見ようともせず自分の思い描いた映像を実物と勘違いして生きています。本物の山河は鏡の映像の中にはないのです。自分に都合の良い思い込みを捨てれば本物が見えてきます

六祖慧能禅師は文字も読めない田舎者だったのに五祖弘忍禅師の法嗣として衣を授かったため反感をかい何百人もの人に衣を奪われそうになります。追手の中で慧明禅師だけが衣より正法を求めていたので授けたのが、不思善、不思悪、正与麼時、如何是上座本来面目でした。慧明は大悟したそうです。六祖壇経

和敬清寂。寂とは本来、死を意味します。涅槃寂静です。しかし、死をも肯定的に受け入れる事で寂滅為楽とするのが悟道に達した達人の境地です。明日は戦場で髑髏を野ざらしにするかもしれない覚悟で一服の茶を今楽しむのが本当の和敬清寂です。死の覚悟もなく生の楽しみを貪るのは本物ではないのです。

拈華微笑。御釈迦様は霊鷲山で説法された時、黙って花を捧げました。迦葉尊者だけがにっこりと微笑みました。その時お釈迦様が、吾に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門有り。不立文字、教外別伝、摩訶迦葉に付嘱す、としたのです。真実は言葉では伝わらないのです。これが禅の真髄です。無門関

若い頃の徳山禅師は金剛経の学僧でした。南方の経文にないことを語る禅宗という邪宗を退治してやろうと山のような注釈書を抱えて洞庭湖の辺の町までやって来ました。ところが茶店のお婆さんに金剛経のことを聞かれても答えられない己れを恥じて山のような書を焼き捨てたそうです。書に真実はないのです

本来の面目は、即ち吾が聖門の所謂良知なり。伝習録では禅語を用いて良知を説明することがよくあります。陽明学の理解に禅の理解は必要不可欠なものです。良知を致すとは本来の面目を発揮させることでしょう。この点からしても知行合一が単なる知識の実行ではなく良知の仏性を実行することだと言えます

香嚴撃竹。香嚴禅師は学問を好み学識深い秀才でしたが知識でない処の生まれる前の一句を言え!と師の潙山禅師に問われ茫然としていました。遂に絶望した香嚴は師の下を去り慧忠国師の墓守りで生きる決意をしたのです。庭掃除をしていた時、小石が竹に当たった瞬間大悟し師に深く感謝したそうです。

本来無一物、何れの処にか塵埃あらん。文字の読めない慧能禅師はこの偈で五祖弘忍禅師の法嗣となり六祖となりました。人が生まれつきもっている仏性というもの聖性、神性の純度の高さを見事に表現したものとして歴史に残つています。文字や言葉よりも生活修行が大事だとされる一例となっています。

生まれたばかりの赤ん坊に六識はあるか?こう問われた趙州禅師は急流の上で鞠をつくようなものさ、と言ったそうです。般若心経では無色声香味触法と言いますがそんなことは百も承知です。そんな理論仏教は急流で鞠をつくぐらいありえないことだ、何の役にも立たないと言いたいのでしょう。実相無相です

一株の大樹、天下の陰涼となる。若き臨済禅師の大器を見抜いた睦州禅師の言葉です。随処に主となれば立処皆な真なり、赤肉団上に一無位の真人有って常に汝ら諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は看よ看よ。自性仏性の自立性、主体性を宣言する言葉が大樹となって人人に一服の陰涼材を与えています

無功徳。梁の武帝は、寺を造営したり、僧に供養し、斎会を開催し、布施を施すことが自慢のようでした。達磨太子にどれほどの功徳があるかと尋ねました。そんなものは何の功徳にもならない、と。武帝は嘆き恨んで、達磨太子を国外追放にしたと六祖壇経に記されています。自性仏性の悟りは無形のものです

聖学晦くして邪説ほしいままなり。伝習録によれば権力欲に満ちた覇道政治が横行することで聖人の道が衰退したとあります。邪説とは記誦の学、訓詁の学、詞章の学などのことです。文字の形式にこだわり、人間性の内実を疎かにする学問です。口先だけの覇術で世を支配する覇道政治が世を惑わすのです。

格物致知。陽明学に於いては、ものをただして知をいたす、と読みます。ものとは物質では無く心の中の邪心や邪念欲心のことです。そのために良知を致すのです。人の聖性、霊性、神性を発揮して邪心邪念を正すことが格物致知です。山中の賊を破るは易く心中の賊を破るは難しという心即理がこれです。

庭前の柏樹子。如何なるか祖師西来意という僧の問いに対する趙州禅師の答えです。僧は何か崇高な理念か深遠なる理論でも期待していたのでしょう。人境倶に奪う絶対無、絶対自由の普遍平等の世界を提示したと言われています。音も無く香も無く常に天地は書かざる経を繰り返しつつ、明歴歴露堂堂なのです