愛を伝えたいんだ
お父さん、お母さん…於次のために出会ってくれてありがとう。於次をこの世に産んでくれてありがとう。短い間だったけど於次を愛してくれてありがとう。於次は二人が繋いでくれた愛と勇気のたすきを次の世代に、後世の平和のために繋ぎます。
天正十二年(1585年)一月末。もうすぐ春の芽吹きを聞こうかという季節が差し迫っていたが、もうすぐ天下人になろうとする羽柴秀吉の居城・長浜城とその城下では、まだ冬の残り香が漂い、青々とした空はまだ春の訪れを告げるのをためらっているようだった。
「さみーなぁ三成、これでも春は来るんだよなぁ…」
長浜城の廊下で、羽柴秀吉の若き近習である大谷吉継は、朋輩で親友である石田三成に小袖の両脇を腕で抱え込みながら、さも寒そうに聞いた。
「来るさ。この世が終わらない限りはね」
三成が吉継に冷静に返答しているとドタバタと二人の元へ走り寄ってくる人影があった。それは彼らの主筋にあたる秀吉の後継者、羽柴秀勝であった。秀勝は自らより八歳から九歳年上である三成や吉継を兄のように慕っていた。
「三成、吉継、みーつけた!!」
「おっおはようございます、秀勝様。何やらご気分が高揚していらっしゃるようですが今日は何か特別な日でしたか?」
「おう、吉継いいことを聞いたね。今日が特別ってわけじゃないけどあと十四日すると特別な日が来るんだなぁ!君たちも愛する妻がいる身なんだから知っていて損はないと思うぜ」
「秀勝様、それはもしかして…南蛮のお祭りでしょうか?」
「さすが冴えてるねぇ三成。そう、南蛮のお祭りだよ。愛し合う恋人や夫婦が贈り物をし合って感謝し合う日なんだよ!」
秀勝が力説しているとその背後からヒソヒソと陰口を叩く声が聞こえた。
「何が南蛮の祭りじゃ。まだ徳川との戦いの決着もついていないというのに。愛し合うもの同士が贈り物を贈り合う?愛だの恋だの女子のように呑気じゃのう近江衆は!のう清正?」
「まったくよ正則。そんな風に女子らしい呑気ものだから近江衆は我らのように戦場で立派な手柄も立てられぬのじゃ…」
三成や吉継と同じ秀吉の近習である「賤ケ岳の七本槍」で世に喧伝されている、福島正則と加藤清正である。二人とも秀吉とは血のつながりがある親戚で、特に正則は秀吉のいとこという立場から態度が横柄で、日頃から秀吉に重用される三成や吉継を煙たがり、秀吉の後継者もどうせ同じ養子なら秀吉の主筋とはいえ他家から来た秀勝より、秀吉の姉ともの息子である秀次が良いという立場であった。羽柴家では便宜として秀勝派を近江衆、秀次派を尾張衆と呼んでいた。ちなみに秀勝も秀次も年齢は同じ数え十八歳である。三成はいつもの彼の役目であるように「主君に対して無礼であろう」と言おうとしたが、それをさえぎるように秀勝が正則たちに嚙みついた。
「呑気ものとは何事じゃ!戦、戦とそれしか頭にないものは無粋で困るの!お前たちはそんなんだから女子にモテぬのじゃ。父秀吉が天下を統一すれば戦の世は終わる、いや終わらせなければならぬ。皆そのために懸命に命を尽くしておるのじゃ。戦しか脳のないお前らは太平の世になにをするつもりなのじゃ?バレンタインの祭りはな、俺の実の父上と母上にまつわる思い出がある俺にとっては大切な祭りじゃ!そんなに俺よりも秀次が良ければ秀次と一緒に武器の手入れでもしてろ馬鹿!」
秀勝が投げ捨てるように言うと正則と清正は何やらもごもごと口にしたが面目なさそうに去っていった。秀勝は陽気で元気一杯の大柄な少年で気が強く負けず嫌いな一面があるとはいえ、今日のような怒りを見せるのは稀であった。三成や吉継は自分たちでは分かちようのない秀勝の心の傷口を垣間見たような気持ちで複雑そうな顔をした。そういえば秀勝は、秀吉の実子である石松丸秀勝が夭折した後入れ替わるように羽柴家へ養子に来て、石松丸と同じ秀勝と名づけられたのであった。しかし秀勝の出自はけして羽柴家へ養子に出されるような格の低い信長の息子というわけではなかった。秀勝は幼名を於次丸と言って信長の正室である濃姫(斎藤帰蝶)が三十四歳でようやく授かった待望の息子なのである。しかしその時には側室の生駒吉乃が産んだ長男信忠が織田家の後継者として内外に認知されており、家中の争いの種になるよりはと濃姫は一粒種の息子を養子に出すことを望んだのだ。風聞によれば「織田家に残るよりも他家へ出た方が於次様の未来は開ける」という南蛮の占い師の助言に従ったのだという…けれど秀勝としては内心傷ついているのだろう、と三成と吉継は見ていた。何故なら濃姫はもちろん彼ほどあの第六天魔王とさえ恐れられた信長に愛された息子はいなかったからである。そして三成も吉継も家族はつつがなく生きているが、秀勝を最も愛した両親は今はこの世にいない。日本人なら知らぬ者はいないであろう本能寺の変で信長と濃姫は横死したのである。信長の死も世間を震撼させたが、信長を正室として裏からサポートしてきた濃姫の死は南蛮の宣教師に「日本の聖母が死んだ」と嘆かせた。秀勝こと於次にも当然自慢の母だったのだ。
「秀勝様、お父上とお母上の思い出深いバレンタインの祭りとはどのようなものでしたか?」
三成は傷心の弟を慰める兄のように秀勝にたずねた。すると秀勝は遠い目を空に向けながら懐かしそうに「バレンタインの祭り」について話はじめた。
今から遡ること九年前の天正三年(1576年)二月十四日、午の刻を三時間ほど過ぎた頃。岐阜城の奥御殿では城主織田信長と正室濃姫の一粒種である於次丸こと於次が母濃姫の膝枕でスヤスヤと昼寝していた。
「於次、於次…もう起きなさいな。もうすぐ父上がお客様を連れていらっしゃいますよ」
母濃姫はいつものように優しく諭すような声音で一人息子を起こそうとしたが無駄だった。もうすぐ養子に行くかもしれないのにこんなことで大丈夫かしら?と、いつもは鷹揚に構えている濃姫もさずがに少し気にならないわけではなかった。そこへ濃姫から今日のために岐阜城に招かれていた信長の妹お市の方がその三人の娘、茶々、初、江(ちゃちゃ、はつ、ごう)を連れてやってきた。
「義姉上様、今日はお招きいただきありがとうございます」
「あらそんな格式張ることでなくてよお市殿、何やら南蛮のこじゃれた伝統の祭りをわらわたちにも見せてくれるということだったので、お招きしただけですわ。お茶々殿たちも将来何かためになることがあるかもしれなくてよ」
「まぁ!楽しみです、ありがとうございます濃姫様。茶々と佐吉の恋が上手くいくおまじないでも教えてもらいたいですわ」
そういうと於次より一つ年長の9歳の茶々は喜んで飛び跳ねた。
「…うるさいなぁ茶々!せっかく俺がいい気持ちで寝ていたとこなのに!そんなお転婆でおしゃべりな茶々なんか、佐吉だってお嫁に欲しくないよ!」
「なんでそうなるのよ、於次の馬鹿ぁ!あんただってお母様のようなお嫁さんなんてもらえないんだからね!」
「うるさい!」
茶々と於次が取っ組み合わんばかりのケンカを始めると、二人の上から威厳ある大人の声が二人をたしなめた。
「これこれ、よさぬか二人とも。南蛮の客人に日ノ本の子ははしたないと思われるであろう」
於次の父信長の声であった。
「父上!」
「伯父上!」
「ほう、これが信長様のお子様ですか?」
信長の後をついてきた金髪碧眼の南蛮の宣教師が信長にたずねる。どうやら彼が信長の言う南蛮の客人のようだ。信長が目を細めて嬉しそうに説明した。
「いやいやセバスティアン殿、女子の方は茶々と言って妹のお市の娘じゃ。男の方が於次と言ってわしとお濃の息子じゃ。茶々はともかくわしとお濃の秘蔵っ子の於次に会えるのは南蛮人広しといえどもセバスティアン殿くらいじゃ」
「それは光栄な歓待ですな。あれだけの品をご献上して差し上げるのに相応しい。だが、そんなに大切なお子さまなのに信長様は信忠様という後継ぎがいらっしゃる。於次様はいったいどのように処遇されるおつもりで?」
「それはのうセバスティアン殿、於次は織田家の跡取りなどという小さな器に収まる子ではないのじゃ。なんと言っても於次はわしとお濃の血を引いているだけあって賢さといい人徳と言い申し分がない。だから惜しいのじゃ、わしは於次に織田家の跡取りではなく天下人の跡取りになってほしいのじゃ。織田家はわしがいなくなれば屋台骨が揺らぐ。だから於次はわしの次に天下人になる器量のある男に預けようと思うのじゃ。今は見極め中じゃがの」
「まぁまぁ殿ったら於次のことになると甘い評価で困りますわ。本当はね、セバスティアン殿、於次はわらわが三十四の時に産んだ子でその時には信忠様が家督と決まっていましたのよ。わらわはあまり子供運がなくてこの於次だけが唯一の子供ですけどお家騒動のもとですからね。ゆくゆくはしかるべき家に養子に出してほしいと言っているところですわ」
濃姫は慌てて夫の説明を訂正した。
「なるほど。北の方様は本当に賢く思いやりの深いお方だ。仏も恐れぬ信長様が自慢される女房だけはある。今日お持ちした品物は濃姫様に相応しい一品ですぞ」
「あら、なんですか、殿?今日は私の誕生日でもありませんのに…」
すると信長は照れながら濃姫に説明した。
「今日はの南蛮では愛する者同士が贈り物をし合うバレンタインという祭りだそうじゃ。なかなか面白いと思っての、日頃の感謝をそなたに伝えたいのじゃ」
「まぁ!素敵なお祭りね!茶々も佐吉とそんな仲になりたいわ!」
「懲りない女だな、佐吉の気持ちだってあるんだぞ。茶々の方が身分が高いから佐吉は拒否できないかもしれないけど、心の底から愛してなんてもらえないぜ。あー佐吉可哀想!」
「うるさいわね於次!茶々にだって夢を見る権利はあるのよ!」
「だって俺は茶々の言う恋なんて信じられないもん」
せっかくのいい場面に於次と茶々がまたしても水を差したので、信長はゴホン、ゴホンと咳払いする。
「まぁまぁ、お茶々殿、於次、今は大事なお話があるみたいだから静かにしましょうね」
濃姫が優しい口調でやんわりと子供たちを黙らせた。
「ごっごめんなさい…濃姫様」
「母上ー」
信長はさずが母は強しじゃなと改めて濃姫に感謝したように眼差しを向けて、セバスティアン殿に「それで例の品はどのような一品なのじゃ?」と聞いた。
「驚かれて腰を抜かされぬよう覚悟して御覧なさいませ。黄金が豊富に出るジパングにおいてもこれ程までに美しい石はなかなかお目にかかれますまい。遠きコロンビアという国の鉱山で採れたエメラルドなる石を研いたものでござりまする」
セバスティアン殿は、もったいないものを扱うような低調なしぐさで木の黒箱を開けると、中には赤いビロウド調の布の上に爽やかな森の緑を連想させる緑色の透明なうずらの卵くらいの大きさの石が鎮座していた。
「まぁ綺麗、これを殿はわらわに贈るのですか?」
「そうじゃ。そなたは日本一の女房じゃからの」
「まぁ嬉しいことをおっしゃいますのね。でもバレンタインは愛する者同士が贈り合うものなのでしょう。わらわにはこんなに美しい石に払える対価あるものが用意できませぬ」
「ハハハハハ、そんなことを案ずる必要はない。お濃は天下人の妻としてわしを常に裏から支え、於次という宝物を生んでくれた。わしにとってはお濃がエメラルドに匹敵するかけがえのないいやそれ以上に価値ある存在じゃぞ」
そんな天下人夫婦の他愛もないけれど絶対に他では見られない仲睦まじさに当てつけられたように、信長と濃姫そして二人の子である於次を残して岐阜城の奥からは人が消えていた。
「父上、母上、どうしたのでしょう茶々も含めて皆いなくなりましたよ」
「あらやだみんなに気を使わせてしまったわね」
「みずくさいことよ。でも折角だから今日はこのまま三人で夕餉を取り川の字になって寝るのもよいのう」
「本当ですか?!今日の父上と母上は於次だけのものなのですね!」
於次はやったーと言うなりはしゃいで父と母の周りを駆け回った。
「於次…」
濃姫と信長は複雑な表情で我が子を見た。もうすぐ養子に出さねばならない息子、本人にも言い聞かせているが両親に誰より溺愛されているこの息子には辛い現実だろう。それでもこの子は泣かないし愚痴一つ言わずに笑顔を振りまいてくれる。
「ここへ来い於次!」
信長は於次を呼んでちょこんと自分の膝の上に座らせた。
「いいか於次、これからどんなに辛く悲しいことがあっても、くじけてはならぬぞ。希望だけは常に持ち生き延びることだけを考えよ。生きてさえいれば必ず好機が来る。それを逃すな。そして日ノ本にも世界にも誇れる天下人になってくれよ」
「そうですよ、於次、母はあなたが誰よりも幸せになってくれることを祈っています」
秀勝が見つめる空はただ無言に青く染まっているが、次第に優しい光が心持ち増して温かくなってきた。それは常に秀勝を照らす優しい太陽であった母濃姫の愛のように秀勝は思いたかった。
「お父さん、お母さん…」
「秀勝様っ」
少し想い出の世界で感傷的になっているような秀勝に吉継が声をかけたその時、ぐすんぐすんという秀勝より一層感傷的な涙声が聞こえた。
「どっどうしたのさ、三成!バレンタインは素晴らしく素敵なお祭りだってお話だよ、何も泣くようなことじゃないよ」
「だっていつもはいたずら好きでちょっとおせっかいかなと秀勝様のことを見ていたのに、そうですよね、秀勝様はご両親をお亡くしになってそれもあんな形で……いつもは我慢して笑顔を振りまいてくださっているのかなって思ったら涙が止まらないんです」
泣く三成に秀勝は慌てて彼の話を打ち消そうとした。
「戦国の世だもの。そんなことで泣いていたら生きては生けないよ、三成。それに戦で両親を亡くしているのは茶々も一緒だよ。佐吉のお嫁さんになれて嬉しいだろうけど慰めてあげなよ、あれで繊細な子だからさ………多分ね」