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全国大会常連という憧れの裏側

私は姉の影響で小3からバレーボールを始めた。
たまたま住んでいた地域のスポーツ少年団が全国大会常連のチームだった。

小学生の頃から平日3日の練習と土日は練習、練習試合、試合と週5日稼働していた。

小学3年。初めて全国大会へ。バレーボールを始めてすぐの頃で控えメンバーとして応援していた。

小学4年。2度目の全国大会へ。後衛として試合に出ていたが、前衛の先輩がチームの柱で後衛の自分が活躍した記憶はない。このとき全国大会ベスト8だった。

小学5年。1つ上の学年がいないという状況で弱小チームに陥った。監督が定着せず、試合では全く勝てなくなり、強豪とか名門とかの欠片もない状態。チームの立て直しを図るために実業団経験者が監督になった。少しずつ形になり、新人戦県大会で優勝した。

小学6年。身長160cmくらい。新人戦で優勝してからというもの、県内では負け知らずのチームになった。3度目の全国大会に出場。その後、メンバーが辞め地方大会では3位だった。

個人・チームの成長は実感できたし、練習試合や試合で出会ったバレーボール仲間と切磋琢磨できているような感覚はあった。天狗になっている感もあったが、小学生レベルで謙虚にいられるのはよっぽど良くできた子供だと思う。

中学1年。1つ上の学年には先輩がいない状況は変わらず県で2位、地方大会では2回戦負け。ここで3年生の先輩が引退する。またもや弱小校へと陥落する。全く勝てなくなった。平日週5日の部活+週3日の夜練、土日は練習、練習試合、試合をこなした日々。春季大会では県で3位まで勝ち上がれるようになった。

中学2年。1つ上の先輩がいない中、中3のチームを相手に県で2位になり地方大会に進んだが2回戦敗退。周りのチームは3年生が引退しチームの作り直しの時期になる。自分らは引退するメンバーがいないわけで有利だった。1月に東京で行われた主に東日本のチームが参加する大会で3位になった。月刊バレーボールでも結果が記載されていた。県・地方ではほぼ負けなしのレベルまでチームが出来上がった。

中学3年。身長173cm。GWに隣県で東日本のチームが参加する大会で優勝した直後、車で東京へ向かった。11時間ほどかかった記憶。関東圏のチームとも互角に戦えるという立ち位置を知った。県では失セット0で1位。地方大会では、3回戦では小学生時代に勝てなかったチームにストレートで勝ち、準決勝でも小学時代に勝てなかったチームにフルセットで勝ち、決勝もフルセットでなんとか勝ち終えた。大分で行われた全国大会ではリーグで1つ勝ち決勝トーナメントに進み、抽選でシードになってしまい、決勝トーナメント2回戦(1戦目)で負け、全国大会では1勝しかしていないがベスト16だった。

中3の夏休み。8月20日頃まで部活をしているというのはかなりの少数派。学校に戻ると「バレーボール部 祝全国大会ベスト16」という横断幕が掲げてあった。

高校1年。身長174cm。日本一を経験したことのある県内の名門校に入学した。雑用から始まり、控えとして交代選手としてたまに試合に出た。インターハイ予選で県2位になり挫折を味わった。インターハイに出られないということは夏には大会がなく、地獄のトレーニング期間を経験した。春高バレーの予選では準決勝からスタメン起用され、県1位になり春高本戦では2回戦敗退。

3.11
当日。山奥の高校で部活をしていた。とにかく揺れた。停電になりラジオから速報が流れる。「ツナミ」という言葉を初めて聞いたような気がする。この地震で周りがどのようになっているのかイメージがわかなかった。体育館からマットを引っ張り出し教室に運んだ。ダルマストーブを焚き、お菓子を食べ、余震で全く眠れず、夜が明けた。

2日目。近くの避難所指定されている中学校へ移動した。荷物を置き、保護者と連絡を取りながら自由時間となった。よく晴れていた。周囲を歩くと、道路は波打ち、マンホールからは水が噴き出し、ブロック塀は倒れてバラバラに、遠くの空は火で赤く、煙で黒くなっているのが見えた。コンビニに電池は売っていない。夕方になり母が車で迎えにきて自宅に戻った。

3日目以降の記憶は曖昧だ。母の職場で販売のボランティアをした。原発被災者で浜通りから会津へ避難させられた祖母を迎えに行った。ガソリンを入れるために、前の晩からガソリンスタンドの行列に並び車中泊した。

1週間ほどが経ち電気が復旧した。
4月下旬、学校が再開した。
バレーボールを始めてから初めてバレーボールができなかった時期を経験した。

高校2年。身長174cm。180cm台後半や2m級の後輩が入学し、自分は控え選手になった。要所で起用してもらえるものの1年次から試合に出ていた自分からすると控えで待っているというのはかなり酷だった。小中学校時代の苦労も身長に屈した。6月インターハイ予選で県1位になり、7月インターハイ、10月国体に出場したが大した結果は残せなかった。春高に向けてスタメン起用されることになり春高予選で県1位。春高本戦でもスタメンで起用されたが2回戦敗退。

高校3年。身長174cm。主将として迎えたインターハイ予選で県2位になり、またもや地獄のトレーニング期間を経験した。春高予選前にはアタッカーからリベロへとポジションが変わりまた挫折を経験したが、チームとしては良い形になった。春高予選で県1位になり、春高本戦で3回戦敗退、ベスト16で終わった。

これでバレーボール人生は終了。

知人の影響で理学療法士を目指すことにした。開設後間もない2期生として専門学校に入学した。

全国大会に出たことがあるというだけでも「すごいね!」と言われる世の中だから全国大会常連でバレーボールをやっていたことはすごいことだったのかもしれない。バレーボールで出た全国大会は高校までで9回。主要メンバーとしての最高成績は全国ベスト16。でも全ての世代で負けて終わった。何度も挫折を経験した。怒鳴られ、殴られ、理不尽極まりないというような体験もした。中学以降は年間360日くらい、ほとんど休みなくバレーボールをした。高校のときは県大会決勝で負けたあとすぐに学校に帰って21時頃まで練習をさせられた。今の時代では考えられないようなブラック部活であったと思う。

良い結果しか注目されない世の中。その背景にあるものを知ることがとても重要である。ブラックな背景を知っているもの同士は理解し合える。「あの頃はやばかったよね」と言い合える仲間はものすごく貴重だ。ブラックな背景があるということを考慮せずに「すごいね!」の一言で片付けられるような世界ではない。

全国大会常連のチームで育った人、日本のトップレベルで活躍している人の背景を知るということも必要である。

多様な背景を尊重し合える世の中になることを願う。

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