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[過去原稿アーカイヴ]Vol.14 ルー・リードとジョン・ケイル ーー『ソングス・フォー・ドレラ』を巡ってーー(2013)(2022/8/25追記)

 なんとオリジナル発売からずっとDVD化されていなかったのはマスターが紛失していたからだそうで、このたびマスターが発見され、4Kレストアされて劇場公開まで決まった。いい機会なので、私が2013年に書いた記事を再掲します。

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https://note.com/onojima/m/m1f1bcef5c6a3

 (2022/8/25追記)

 以下の文は、7年前の2013年、ルー・リード逝去を受けて、河出書房新社から刊行されたムックに寄稿したものだ。ルー・リード&ジョン・ケイルの『ソングス・フォー・ドレラ』のライヴ映像作品を題材に、2人の関係性について書いたコラムである。この映像作品はVHSやレーザー・ディスクで発売されて以降、公式DVD化もされぬままだったが、このたび正式な形で配信されることが決まった。鑑賞のお供としてご一読いただければ幸いです。(2020/11/11)

ルー・リード&ジョン・ケイルの90年コラボ作をステージ上で再現したライヴ映像作品 11月14日午前9時30分〜無料配信

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  『ソングス・フォー・ドレラ』のレーザー・ディスクを見ている。オークションで落札したものだ。VHSテープでしか持っておらず、それももう、倉庫のような自宅のどこにあるかわからない。そしてこのソフトはなぜか、いまだDVD化されていない。はたしてまともに動いてくれるか不安だったが、数年ぶりに電気を通したLDプレイヤーは、長い眠りから目覚めるようにゆっくりと立ち上がり、ディスクをセットするためのトレイを大儀そうに吐き出す。LPサイズの巨大な銀盤をトレイに載せ、プレイボタンを押す。40インチのモニターに映し出される2人の音楽家。DVDやブルーレイに慣れた目には、かなり眠たい絵だが、時間がたつにつれ、だんだんピントがあうようにシャープな画質になってくる。それとともに、ぼくの脳裏にはさまざまな思いが浮かび上がってきた。

 1989年12月6日、ニューヨークのアカデミー・オブ・ミュージックに於けるライヴ。言うまでもなく、ルー・リードとジョン・ケイルが1987年に亡くなったアンディ・ウォーホールに捧げた同名アルバムに対応したものだ。ライヴとはいえ客は会場にいない。薄暗いステージに2人の音楽家だけが位置して、背後にはウォーホール関連のスライドが映し出されるのみ。それ以外の要素は一切含まれていない。まるで世界にルーとジョンだけが存在しているかのようだ。アルバムと同じ曲を同じ曲順で演奏し、アレンジもほとんど変わらない。だが演奏するふたりの表情や仕草が克明に映しだされることで、アルバムで音だけ聴いているのではわからない、心理や感情の襞までもが汲み取れるようである。

 ふたりの演奏するギターやピアノ、ヴィオラ、ヴァイオリン以外はなにも入っていないシンプルな楽器構成、過剰なドラマツルギーやダイナミズムを排したアレンジ、時に呟くように、時に早口に紡がれる歌詞、淡々と進行する楽曲の数々は、アルバムでは、ゆったりとした穏やかなものにも聴こえるが、映像になるとがらりと印象が変わる。

 ステージの両端に位置するふたりは、ほとんど目を合わせることがない。正確に言うと、ジョン・ケイルの視線の先には常にルー・リードがいるが、ルーは歌っている時も、ジョンのヴォーカル時にも、終始無表情で、ギターを弾く手元を確認しているのか歌詞カードを見ているのか、あるいは何もない虚空を見やっているのか、決して視線を上げてジョンを見ようとしない。楽曲のキメや展開の部分、エンディングのタイミングを確認するために一瞬目配せすることはあっても、ふたりの視線が穏やかに絡み合い、笑顔で頷き合うなんてことはついぞない。唯一、ジョンのヴォーカル曲「スタイル・イット・テイクス」の冒頭で薄く微笑みあうだけだ。厳しい視線と声に出さない緊迫したやりとりがピリピリとした空気を生々しく伝える。「ゆったりとした穏やかな演奏」なんてものじゃない。映像では演奏場面をぶつ切りにつなぎ合わせるだけで曲間の様子などは一切カットされているので、演奏中の緊張感が終始途切れることなく続く。

 極めつけは終曲「ハロー・イッツ・ミー」だ。"アンディ、俺だよ。しばらくだね”と歌い出されるこの曲は、それまでアンディの生涯を追う形で、彼にまつわるエピソードやさまざまな思いを語り部として歌い綴ってきたルーが、初めて故人に向かって直接語りかける曲だ。アルバムでルーは臆病で自分勝手でケツの穴の小さい俗物としてのアンディ・ウォーホールを容赦なく描き尽くしている。「なぜルーは結婚式に僕を呼ばないの?/なぜ彼は僕を無視するの?/僕はルーのことを本当に憎んでる/彼のことを誇りに思ってたのに/誰も呼んでくれない/誰も来ない」と、アンディが悲痛な思いを綴った『The Andy Warhol Diaries』を元にルーが創作した詩をジョンが歌う「ア・ドリーム」といった楽曲の果て、最後になってルーは”ほんとうに君がいなくて寂しいよ”と歌う。たぶんルー・リードの数多い楽曲でも屈指の、美しい情感にあふれた曲だ。

 だがそんな感動的な名曲を演奏している時でも、ルーとジョンの緊張感をはらんだ対峙は解き放たれることがない。ジョンはヴァイオリンを弾きながら、時に恐ろしいほど鋭い、刺すような視線を、時に悲しみに満ちた気弱な視線を終始ルーから離すことはない。ルーはそれに応えることなく、仏頂面でうつむき加減にギターを爪弾きながら、静かに歌う。楽曲はルー主導で作られているだろうから、ルーの呼吸に合わせるためにジョンはルーを注視しなければならなかったのかもしれないが、ルーの「シカト」ぶりは不自然なほどで、その対比は異様ですらある。

 ルーは誰に向かって歌っているのか。天国のアンディ・ウォーホールに向かって話しかけているのか。あるいは、己の内面と対話しているのか。いずれにしろその視線の先にあるのは、ジョンではない。だがジョンは常に、そして最初から、ルーという存在を激しく意識せずにはいられなかったのだ。

 ふたりが初めて出会ったのは、1965年。ルーが企画物専門のレコード会社の専属作曲家として使い捨てのようなポップ・ソングを量産し、ジョンはラ・モンテ・ヤングとともに現代音楽の演奏家として活動していたころに遡る。ジョンはルーと出会った時のことをこう述べている。

 「彼が会社のために書いた曲は、とりわけ新しくも刺激的でもなかった。でも会社には絶対採用されないと文句を言いながら演奏してくれた”ヘロイン”に、僕は完全にノックアウトされた。そこには僕が求めるものが全てあって、僕の抱いていた音楽的コンセプトと完璧に一致したんだ」

 ルーの傑出したソング・クラフトとジョンのサウンド・メイキングの合致がヴェルヴェット・アンダーグラウンドの誕生だった。ルーは詩のアイディアを、ジョンは音楽のアイディアを具現化する手立てが必要だった。ジョンは自分の前衛音楽的アプローチが誰にも影響を与えられないことに苛立っていたし、ルーは自分の詩人としての資質だけでは、真に革新的でエキサイティングなものを作るには足りないと考えていた。ふたりは切実にお互いを必要としていたのだ。その結果生まれたのがヴェルヴェット・アンダーグラウンドの初期2枚のアルバムだった。

 だがアンディ・ウォーホールやニコ、そしてその取り巻きたちの思惑、レコードセールスの不振などさざまな要素が絡み合い、いつしかふたりの距離は離れていった。時には殴り合いの喧嘩になることもあったという。そしてある日突然、ルーがスターリング・モリスンとモーリン・タッカーに、ジョンのバンド脱退を告げ、ふたりの関係は終わるのである。

 スターリングはのちにこう言っている。

 「ジョンの代わりになれる人なんて簡単には見つからなかった。ダグ・ユールは良いベース・プレイヤーだけど、彼が参加したことで、僕らは皆同じ意見を持つようになってしまった。皆が同じ意見や方向性を持っているというのは、あまりいいことじゃないね」

 バンド活動の過程で次第にソロ志向を強め、ポップな楽曲と詩を強調するような方向に向かっていたルーに、もはや「異物」としてのジョンは必要なかったのだろう。アンディ・ウォーホールのポップ・アート・コンセプトも、ジョン・ケイルのラ・モンテ・ヤング的な実験音楽アプローチも、ルーには不要なものだった。結果としてルーはアンディと決別し、ジョンは一方的に切り捨てられた。ジョンはそのことにずっとわだかまりを感じていたのだろう。

 22年ぶりの共同作業。ふたりにとって忘れがたい、恩人であり友人であり、愛憎半ばする存在であるアンディ・ウォーホール(と、彼の翌年に亡くなったニコ)の死をきっかけにした再びの邂逅。だがふたりの永遠に縮まることのない距離感を、この映像は残酷なほど示している。

 だがそのように緊張をはらんだ対峙であっても、20余年の歳月を経ていても、『ソングス・フォー・ドレラ』に於けるふたりの関係性は、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのころから変わらない。ルーの書く楽曲を、ジョンがピアノやヴィオラなどの演奏でバックアップする。ルーの歌詞をジョンの持続するドローン音響演奏が何倍にも押し広げていく。水と油だったふたりだからこそ作り得た世界。スターリングもモーリンもいない分、その緊密に入り組んだコラボレーションの抜き差しならない緊張感はすさまじい。確かにこのふたりでなくてはならなかったし、それを一番痛感したのは当の本人たちだったに違いない。長年の恩讐を超え、ふたりが再び辿り着いた最高の瞬間だった。だがそれが長続きするものではないことを、「ハロー・イッツ・ミー」、そして『ソングス・フォー・ドレラ』の映像は暗示している。 

 このあとヴェルヴェット・アンダーグラウンドの再結成もあったが、案の定ふたりはまもなく衝突し決別、2度と相まみえることはなかった。

 そして2013年10月27日。ルーの死によって、ルーとジョンの長い葛藤の日々は終わったのである。時は流れ去り、そして2度と戻ることはない。

 「私のもっとも恐れていた知らせは、私の喉のつかえやお腹にぽっかりとあいた空洞にもはや飲み込まれてしまったようだ。ふたりの少年が偶然にも出会い、47年後にもまた同じように喧嘩して、愛し合うーーお互いを失うことなど、到底理解できない。それは何ものにも替えられぬ価値があり、デジタルでもヴァーチャルでも満たすことができない。でももう、壊れてしまったのだーーよくある話ではあるだろう。だが幸運にも、その激情は最高の形でヴァイナル盤に刻み込まれており、世界中の人たちはそれを垣間見ることができる。ほんの数週間前に一緒に笑い合えたという記憶は、私と彼の間の最良の瞬間を、いつまでも思い出させてくれるだろう。」(ジョン・ケイル 2013年10月27日)

(C)小野島大

初出:『文藝別冊 ルー・リード』(河出書房新社)



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