よく知らない人のためのビートルズ入門
さきごろ、岸野雄一さんがこんなことをツイートされてました。
なるほど、そういうこともあるかもな、という感じ。
ビートルズなんて誰でも知ってる常識中の常識だと思って、自称音楽通はどんどん奥の細道に入り込み、やれ未発表テイクがどうのマトリクス・ナンバーがどうのとか、細かいトリビア話に入れ込んでしまい、これから音楽を聴こうという若い人への基本的な啓蒙や情報がおざなりにされている現状があるのかもしれません。
我々が既に知りすぎていると思い込み、いまさら一から語るのもおっくうなレジェンドたちについて、もう一度基礎から語り直す必要があるのかもしれないですね。
ということで、約7年前に私が日本経済新聞に短期連載したビートルズ入門記事を、以下に転載します。日経新聞のサイトにも見当たらないようなので。事細かに彼らの変遷を追うというより、ビートルズの功績や影響をさまざまな側面から俯瞰したものです。7年前の記事で、今の状況にはややそぐわない箇所もありますし、紙幅の制約もあり十分な情報とは言えませんが、今でも入門用としてはまあまあ役に立つのではないかと思います。あまりビートルズやロックのことを知らない新聞読者にもわかるように、ということを念頭に置いた記事なので、当たり前のことしか書いてませんが、その「当たり前の情報」が、あまり共有されていない現状もあるのではないかと思います。全4回の記事を一気掲載します。
(第1回)
市場経済の発展、大衆社会の成立、放送メディアの発達、そして複製媒体としてのレコードの普及などが相次いで起こった20世紀は、「ポピュラー音楽の世紀」とも言われる。その20世紀後半のポップ音楽をリードしたのがビートルズだった。
ボーカル、ギター、ベース、ドラムといった小編成のバンド・スタイルで、自作の曲を歌い演奏する。今日に至るまで踏襲されるロック・バンドの基本形式を確立したのもビートルズといっていいだろう。4人の若者が一体となっての爆発的なエネルギーは、それまで流行っていた大人たちによるあてがいぶちのポップスをすべて時代遅れにしてしまうような、鮮烈なインパクトがあった。
彼らのエネルギーの源はエルヴィス・プレスリーやチャック・ベリーから受け継いだR&Bのリズム。そこに彼らのルーツであるケルト民謡の音階やアメリカン・ポップスのハーモニーなどを加え、常識にとらわれないひねったコード進行や構成などで、まったく新しい感性の曲を作った。ビートルズをきっかけにブルースやR&Bなど米黒人音楽が人種や国境を越え幅広く聴かれるようにもなった。性急なコミュニケーションを求める歌詞は、彼ら自身の気持ちを彼ら自身の言葉で率直に綴ったものであり、若者たちの共感を呼んだ。
中期以降の彼らはクラシック、ジャズ、インド音楽、レゲエ、電子音楽、サイケデリックなど、多様な音楽性をどん欲に取り入れ融合し、意欲的な音楽世界を作っていく。歌詞も社会的・内省的・幻想的な広がりを持った複雑なイメージの芸術性の高いものになってきた。それにともない、ヒット・シングルの寄せ集めでしかなかったアルバムを長編小説のような一貫性のあるトータル表現として捉え、ポップ音楽の中心をシングルからアルバムに変えた。
やがて彼らは録音スタジオにこもって、ライヴでは再現不可能な自由奔放で実験的な音楽作りに専念するようになる。ビートルズが成し遂げた録音芸術の革命は、1967年に発表された「コンセプト・アルバム」の先駆である『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』に結実する。これにより、一時の流行に過ぎないと思われていたロックは、<芸術>として評価されるようになり、若者の意識を反映する先鋭的なメディアとして、音楽を超えた大きな影響力を持つようになる。
ビートルズの成功は、ローリング・ストーンズを筆頭とする英国ロック・バンドたちの世界進出の道を切り開いた。音楽的にもその影響は広く大きい。なかでも90年代の英国ロックの大きな動きとして注目された「ブリット・ポップ」は、ビートルズの再評価を促し現在に繋がっている。
とりわけ「第2のビートルズ」と言われ90年代から00年代にかけて大きな人気と影響力を持ったオアシスは、結局ビートルズがライヴで演奏することのなかった「アイ・アム・ザ・ウォルラス」をライヴの定番として、後継者たる自負を示した。音楽的にはケルト的な旋律やコード進行、クラシカルなストリングス・アレンジなどにビートルズの影響が色濃い。
オアシスのライバル格のブラーはウィットの効いたポップ性を受け継ぎ、レディオヘッドはロックの領域を広げる果敢な実験精神を商業的成功に結びつけ、現代のビートルズたらんとしている。
(第2回)
ビートルズは1966年のアメリカ公演を最後に、一切のコンサート活動を中止する。それ以前からメンバーはスタジオでの創作活動の方に力を傾注するようになっていた。レコーディングに専念することで、ライブでの再現を前提としない、実験性に富んだ音作りに邁進し始めたのである。
ビートルズの魅力とは、良いメロディと良い歌詞だけではない。「レコードとしてどう聴かせるか」を考える。それがレコードという複製芸術の時代の「良い音楽」だと彼らは考えた。歌詞やメロディと同様、あるいはそれ以上にサウンドの質感や音色、響きなどを重視する考えは、90年代以降にレディオヘッドやトータス、ジム・オルークといった「音響派」「ポスト・ロック」と呼ばれる人たちにより一般的となった。
ビートルズは常識にとらわれない斬新な、遊び心溢れるアイディアを次々と出し、それらを的確に具現化していったのが、プロデューサーのジョージ・マーティンを始めとする録音スタッフだった。それは時に、新たな録音手法の考案や機材の新開発など、スタジオでのレコーディング技術の革新にまで及んだのである。
ますます複雑化するアレンジで楽器の音が増え、従来の4トラック・レコーダーでは対処できなくなり、技術者が4トラック・レコーダー2台を電気信号で同期させて8トラックとして使うやり方を開発。それまでのレコードが、バンドが演奏したものをそのまま録音するだけだったのに対して、ビートルズにとって「演奏」はひとつの素材に過ぎなかった。それをスタジオ作業で加工・編集し組み立てていく「ポスト・プロダクション」という作業の重要性を浮き彫りにした。その過程で、多重録音や、バンド・メンバーが直接顔を合わすことなく「バンド演奏」を録音したりといった、現代の録音音楽家なら当たり前となった作業も、ビートルズ以降一般化した。現代では音楽家同士がメールで音源データをやりとりして自宅作業で完成させるやり方も普通になっているが、こうした宅録作業も、ビートルズがもたらしたもののひとつだ。
ビートルズのもたらした録音技術革新は、PC録音が一般的となりデジタル領域での高度な編集作業が可能となって「できないことはない」と言われるまでにまでに進化した。そうした録音技術を自在に駆使して斬新なポップ音楽を作り出したのが、ベックやコーネリアスといった音楽家だ。1970年米国生まれのベックは、1994年の出世作『メロウ・ゴールド』で、ブルースやR&Bの荒々しく原始的なエネルギーを最新技術による編集作業で現代に蘇らせて世界的な存在となった。また1969年東京に生まれたコーネリアスこと小山田圭吾は、1997年のアルバム『ファンタズマ』で、実験性とポップ性を見事に合致させ既存のロックの形を解体して、世界中に衝撃を与えた。ビートルズ登場時には生まれてもいなかったふたりは、どちらもある意味でビートルズの正統な後継者と言える。
ビートルズの録音芸術家としての頂点を極めた1曲が「トゥモロー・ネバー・ノウズ」である。テープ逆回転や、テープ・ループを使ってサイケデリックな効果、さらにジョン・レノンの「山の頂上からダライ・ラマが歌っているような感じ」という要請に録音技師が応え、ボーカルをオルガン用のスピーカーを通して再生するという斬新なアイディアで、衝撃的なサウンドを作り上げた。さらに既存のレコードから録音したテープを切り刻んだものものをランダムに繋いでループ再生する、といった手法は、後のサンプリングの原型とも言えるもので、ダブ、ヒップホップ、テクノなど現在のポップ音楽の最先端にも受け継がれている。
(第3回)
1980年12月8日、元ビートルズのジョン・レノンがニューヨークの自宅アパート前で射殺された。その死は爆発的な反響を巻き起こし、一説によればケネディ大統領の暗殺時よりも各マスコミの扱いは大きかった、と言われる。ビートルズの「現象」とまで言われた米国での大ブレイクは、ケネディ暗殺の直後だった。輝かしい未来を託すべき若き大統領を失ったアメリカ国民は、新しい時代の象徴としてビートルズを選んだのだ。キューバ危機、公民権運動の盛り上がりなど世界史の変わり目にあらわれたビートルズは単なるポップ音楽の人気グループの域を最初から超えていた。その影響は音楽に留まらず、社会経済、文化全般、人々の思想やライフスタイルにまで及んだのである。
彼らのデビュー当時に論議を生んだ長髪は、性差を超えた自由で新しい感性を象徴していた。たとえばビートルズ解散後に台頭したディヴィッド・ボウイは、中性的なイメージのヴィジュアルと感性で70年代を代表するスーパースターとなり、後進に絶大な影響を及ぼしたが、ビートルズが「男は男らしく」といった固定観念を打ち壊したからこそ浮上した、と言える。自由闊達な生き方。率直な物言い。既存の社会常識や古い価値観を機知に富んだ言葉や振る舞いで打ち壊していく。性差や人種や国境や言語や階級の壁を越えようというメッセージを、彼らは言葉ではなく、存在そのもので伝えていたのである。そんな彼らに共感し、その生き方に共鳴する若者が世界中にあらわれた。若者が消費社会の先導者として市場の中心となっていった60年代、その中心となったのは、間違いなくビートルズだった。
デビュー当時は男女の恋愛を率直な言葉で歌い、アイドルとして人気を博した彼らはやがてそれに飽き足らなくなった。レノンはボブ・ディランの影響で高度に文学的な詩の世界に踏みこむ(逆にディランはビートルズの影響でそれまでの弾き語りのフォーク・スタイルからロックに転向する)。またポール・マッカートニーはロンドンのアンダーグラウンドな芸術家や映像作家との交流を通じて、当時のアメリカの最先端のサブカルチャーに触れ、自ら主導権をとって『サージェント・ペパーズ』を作る。当時のヒッピー/サイケデリック・カルチャーを象徴する作品として、世界中を驚かせた。サイケデリック音楽の代表的グループであるサンフランシスコのジェファーソン・エアプレインやロスアンジェルスのドアーズは、ビートルズに触発されバンドを始めた。ヒッピー文化が頂点をきわめた1967年にはその象徴的イベントである「モンタレイ・ポップ・フェスティバル」が催されたが、そこで衝撃的なデビューを果たしたエレキギターの革命児ジミ・ヘンドリックスの出演は、マッカートニーの推薦で決まったものだった。
インド哲学に傾倒し、世界の目をアジアに向けさせもした。ベトナム戦争が激化し、抑圧や差別を弾劾するスチューデント・パワーが吹き荒れた60年代後半にいち早くベトナム反戦を表明し、「愛こそはすべて」というメッセージを発して共感を得る。彼らの興味の矛先や関心事が、そのまま世界のポップ・カルチャーの最先端となり、若者達の意識や生き方さえも変えたのである。既成の約束事や常識にとらわれず常に挑戦的であり続ける姿勢が「ロックな生き方」としてロックの精神性を象徴するようになったのも、ビートルズ以降だろう。
コンピューター業界の革命児スティーブ・ジョブスは、その社名をビートルズが設立したレコード会社「アップル」からとった、とされる。アップル=ジョブスの自由奔放で型破りな経営哲学の底には、「ビートルズ的な生き方」があったのである。
(第4回)
1963年11月22日、日米が初めて衛星中継で繋がれたその日、ケネディ大統領が暗殺され、その一部始終がテレビで実況中継された。あらゆる情報がメディアを通じて瞬時に共有される時代の到来だった。ビートルズのアメリカでの大ブレイクは、その直後のことである。ビートルズの持つ優れて身体的・感覚的・視覚的な魅力は、当時日本でも世帯普及率が80%を超えようとしていたテレビの共時性・映像性によって即座に共感・共有され、世界レベルで爆発的に広まっていったのである。ビートルズの圧倒的な人気は、こうした映像・電波メディアとの相乗効果も大きかった。またそうして人気者になることで、ビートルズの様々な音楽実験や録音技術の革新、音楽の枠を超え既存の価値観を打ち壊す斬新な思想やライフスタイルは周知され普及し、世界の文化史を揺るがすような巨大な影響力を持つに至った。いわばビートルズ自身が強力なメディアとして機能したのである。
ビートルズの初の主演映画『ア・ハード・デイズ・ナイト』(1964年)は、ビートルズの日常を虚実入り交じったドキュメント・タッチで描いた作品だ。斬新な映像感覚と乾いたスラップスティック・ギャグで、ただ主人公が恋や青春を歌い演じるだけの甘ったるいポップ・アイドル映画とは一線を画していた。80年代以降のミュージック・ビデオ(MV)の一般化によって、ポップ音楽には映像の要素が欠かせないものとなったが、ビートルズの楽曲のイメージやリズム感、スピード感を自由奔放な映像感覚で視覚化した『ア・ハード〜』の方法論は、MVの先駆けと言っていい。マイケル・ジャクソンの「スリラー」(1983年)のMVは、音楽と映像が一体化したモダン・ポップ・アートの最良の成果のひとつだ。マイケルは一時ビートルズの版権を所有していたほどの熱心なビートルズ・ファンだった。ビートルズが先駆け、マイケルが確立した音楽と映像が一体化したマルチメディア作品としてのポップ音楽は、現在ではレディ・ガガやマドンナ、U2のような人たちがもっとも強力に押し進めている。彼らのハイテクを駆使しての音・映像・照明が一体化したスペクタキュラーなショウは、ビートルズが21世紀に存在していたら試みていたかもしれない。
その後もビートルズはレコードとともに映像でも意欲的な作品を送り出していく。『マジカル・ミステリー・ツアー』(1967年)や『イエロー・サブマリン』(1968)が代表的なものだ。サイケデリックなロード・ムーヴィ・スタイルの前者はアメリカン・ニューシネマの代表作『イージー・ライダー』(1969年)にインスピレーションを与えたとされるし、ロックとアニメーションを融合した後者は、たとえば松本零士とのコラボレーションで意欲的な作品を送り出すフランスの電子音楽ユニットのダフト・パンクにも影響を与えた。
ビートルズは1968年に自分たちの会社アップル・コアを設立する。家電、映画、出版、アパレル、そしてレコード・レーベルといった多角的な事業を展開、音楽業界に一石を投じようとした。結果的に事業は失敗し、レーベル以外は撤退を余儀なくされるが、それまで音楽産業に利用されるばかりだったポップ音楽家が、初めて作ったアーティスト本位の会社は後進に大きな刺激を与えた。その後の音楽家主導のレコード会社の設立や、80年代以降のロック系インディーズ・レーベルの隆盛は、ここに端を発している。自分たちの理想やアーティスティックなセンスを音楽のみならず多様なメディア展開の中に生かしていこうというビートルズの意志は、映画、アート、アニメ、ゲームなど、あらゆるポップ・カルチャーの領域に浸透している。
(C)小野島大
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