見出し画像

同調圧力の源泉となるもの

日本人は同調圧力がつよいとよく言われる。
それは島国だからとか村社会だからとか歴史的にも根強いのだと。
僕も実感として同調圧力というものは今日まで感じてきた。
だから特に海外からみたらそうなのだろうなというのは理解できる。
ただここ数年でその同調圧力には今まで思っていたようなものと少し違った形に思えるようになってきた。

コロナ禍のマスク着用のルール。別に強制ではなくても多くの人がマスク着用をしていた。
アンケートをとるとマスク着用の一番の理由が周囲の目だった。
何か気を付けるとかではなくて世の中全体の空気感がマスク着用の方向を向いているということを察知していた。
それは典型的な同調圧力に近いものだったのだろう。
ただ一方で二番目の理由があった。
自分が誰かにうつしたくないからという理由だ。
うつされたくないのではなくて、うつしたくない。
周囲の目線の影に隠れて、その理由が上位に来ることに、ああ、それかと感じるものがあった。

やさしさだ。
人に迷惑をかけちゃいけない。
そのやさしさが自分を縛っていく。
サッカーの試合のゴミ拾いが世界に絶賛されるけれどさ。
あれだよな、きっと。
それ自体が絶賛されるような美しいことなのだろう。
島国とか村社会とかも、もちろん大きな理由の一つだろうけれど、案外、日本人の同調圧力の正体は、多くがやさしさで出来ているのかもしれないと今の僕は感じている。

戦時中、戦争反対と口にすれば非国民と言われた。
とんでもない同調圧力の強度が強かった時代だ。
当然、村社会的な発想で生まれた同調圧力もあっただろう。
村八分なんて言う制度が実際にあった国なのだから。
でも、想像力を働かせればそれだけじゃなかっただろうと。
親戚や友人、隣近所の知り合いが戦地に行っている。
戦死した人もいる。
今、戦地で命懸けで国のために戦ってくれている人がいる。
それなのに、戦争反対なんて口にしたら申し訳ないじゃないか?
命を投げ出している人たちに失礼じゃないか?
命は重いから、より深刻になっていく。
今、泥水をすすり銃下にいる人たちを応援するべきだよというやさしさが同調圧力を生んでいくという方が、より理解できる。

これは大変な問題だ。
だって、やさしいのがいけないなんて言えないから。
例えば江戸時代にはかたき討ちなんていう私刑が認められていた。
今でも、仇討ちは様々な物語の演目で美談として残っている。
赤穂浪士に同情するのが日本人の気質だ。
誰かの為にという考え方、人に迷惑はかけないという考え方。
それ自体は美しいわけで、ポジティブだし、肯定的なのだけれど。
そこから狂気が生まれるのだとすれば、これはなんなのだろう。

漫画原作者の自死から始まった問題をみていてとても考えてしまう。
死がもたらした騒ぎの拡大のスピード。
無論、ポジティブな方向に進もうとしているのだろうと思うけれど。
これは正に日本人的な集団行動と思えるような動きだった。

例えば今の日本人の殆どが戦争反対だけれどさ。
どこかに北朝鮮のミサイルの一部が間違えて落ちてしまって命を喪ってしまったなんてことが起きたら、一瞬で引っ繰り返るかもしれない。
そんなことを思った。
喪われた命や、遺族への同情、それはそのまま集団意識になり、集団行動に繋がっていくだろう。
反対と口にすれば、お前は可哀そうじゃないのか?なんて言われるのかもしれないなんて思える。

まぁ、もちろんさ。
自分のことしか考えてねえなぁってやつとかさ。
お前のことなんか誰も気にしてねぇけど?みたいなやつとかさ。
わがまま放題だって気付いてるのかー?みたいなやつとかもさ。
いるし、どんどん増えているような気もする。
察する文化みたいなものがどんどんなくなっているような気も。
もう新しい時代に踏み込んでいてそんなに簡単に同調しないような流れになっているのだと言われたらそうかもしれないとも思う。
察してくれよと思ったことも何度もあるしさ。

このやさしさは僕たちの持つ美徳だ。
でも同時に集団ヒステリーを生み出す萌芽でもある。
そして残念ながらこのやさしさを利用しようとする連中も存在してる。
世論操作しやすい民族性なのだろうなぁと思う。

お願いベースでロックダウンもなく自粛してマスクをつけた。
世界的にもパンデミックの中、死者が少なかった。
そこには、やさしさから生まれた同調圧力があった。
やさしさは悪いものじゃないけれど。
論理を崩壊させる情感に訴えた扇動が今も世の中にたくさんあることに、薄ら寒いものを覚える。

僕はやさしくありたいけれど。伝染するやさしさには注意したいなぁと思う。

投げ銭は全て「演者」映画化計画に使用させていただきます。