見出し画像

生き生きと生きることと

僕は頭でっかちなところがあって。
色々と考えてしまうというか。
考えることの面白さというか。
そういう感じでいる人なのですけれども。
だからどこか勘違いされてしまいそうになるのです。

それでも一番大事なことは忘れないようにしているというか。
結局、自分にとって重要なのは考えることではなくて。
考えることなどは簡単に吹き飛ぶようなことであります。

ゲラゲラ笑ってしまったりですね。
プンスカ怒ってしまったりですね。
シクシク泣いてしまったりですね。
まぁ、そういうことの一つ一つです。

あのねあのね。
なんせその生き生きと生きること以上に大事なことはない。
僕はそう思っているのです。
もちろんその生き生きがポジティブなものだけとは限らず。
ギリギリと歯噛みするほど悔しかったりですね。
どよ~んと落ち込んで何もする気が起きなかったりですね。
そういうことも全部含めて、生き生きと生きる方が良いと。
僕なんかはそう思っているのです。

ただね。それが一番大事なのだけれど。
なんか欲望とか権力の事ばっかりに頭が支配されるようなつまらない生き方だけはしたくねぇなぁってだけなのですけれども。
この生き生きと生きるっていうのには、落とし穴があるわけです。
例えばですね、司馬遼太郎先生の「燃えよ剣」が大流行した時代なんかには、幕末に生まれていたらなぁなんていう若者がたくさんいたわけです。
命を懸けて歴史を変えるような時代に生まれていれば。
そんなことを思ってしまう感じってすごく分かるのです。
でも、それがとってもとっても危険なことだよなって思うわけです。

生ききっている。
例えば格闘家はリングの上で圧倒的な生を感じるわけです。
それがすべてであり、それ以外のものはおまけにすぎない。
確かにそうだろうなって思うのです。
この日本でも戦争直後に抜け殻のようになった男たちがたくさんいたそうです。
死と隣り合わせで、むしろ戦地で死ぬことも覚悟していた人生に急に未来がやってきて、かえって生きている感じがしなくなってしまった。
そういうことが実際に証言でたくさん残っているわけです。
依存症的なものとはそういう意味だと思います。
最近話題のギャンブル依存症でも薬物でもそうですけれども。
生きているという実感を手にすることで生まれるアドレナリンに精神が支配されてしまうわけです。
人間は動物ですから、生きるためには必要な脳の機能だと思います。
かつては狩猟で食事を摂っていたのですから。

生き生きと生きる。
それ自体が本能と直結した問題だということです。
心の源泉のような場所から、あふれ出てくるもの。
圧倒的な生を感じることというのはそういうことです。
もう笑えてしょうがない時は止まらないし。
泣けて仕方がないなんてときは涙を止めることは不可能で。
平穏な毎日を望みながら、実は生き生きとし続けることも望むという。
意外に難しいミッションをしているのかもなぁなんて思うわけです。

一生懸命になって何かにチャレンジすること。
それは生きることと同じ意味であります。
生き生きとすることであります。
ただそこには落とし穴があるんだぜと自分には言い聞かせるようにしています。
本能が導き出した生きる実感のようなもの。
それがアドレナリンやらエンドルフィンやら脳内ホルモンで作り出した幻覚である可能性には注意しないとなと思っているのです。
まあ山頂で見る景色やら、達成感もそうだっていえばそうなのですけど。

この国のために命をかける!
みたいなことは生を実感することだと理解しつつ。
いや、でもさ。
そんな自分に興奮して酔っぱらってんじゃねぇか?
しかもそれを利用する奴もいるんざねーかね?
なんて、半眼で眺めていようと思うわけです。

その上で生き生きと生きたいわけです。

投げ銭は全て「演者」映画化計画に使用させていただきます。