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スポーツ写真の真髄を見た気がする

先日、学芸大学駅から歩いて10分ほどの場所にひっそりと佇むBOOK AND SONSという古書店にお邪魔しました。目的はただ1つ。そこで開催されている写真展を見るためです。

写真展のタイトルは「HARD WORK」。飾られている写真は全て、写真家の松本昇大さんによって撮影されたものでした。ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、松本さんは、雑誌や広告の撮影をする傍ら、独自の目線でスポーツの撮影もされている写真家です。

と、偉そうに書いたものの、私が松本さんを知ったのは、つい最近で、その仕事の全てを見知っている訳ではありません。ただ、松本さんが撮影された写真を初めて見た時に、「スポーツ写真に対して自分が感じていた迷い」を払拭してくれた様な気がして、そこから彼自身や彼が撮影する写真に魅了される様になりました。今回の写真展を知ったのは、そんな流れから松本さんのインスタグラムをフォローしていたことがキッカケです。

写真展で展示されていた写真は全て、陸上の大迫傑選手に密着する中で撮影されたものでした。こういったご時世ではありますが、ぜひ1度本物を見に行って頂きたいので写真の詳細は割愛しますが、展示された数々の写真は、いわゆるスポーツ写真とは異なったものでした。

私は、展示された写真を見ながら、松本さんと大迫選手の絶妙な距離感を感じました。撮影者と被写体という言葉で割り切れるほど他人行儀ではなく、かといって完全密着というほど、互いの存在を意識し過ぎることもない。そこにいることが当たり前の、家族の様な存在として、同じ空間にいる大迫選手を撮ってきた。そんな風に感じられる写真ばかりが展示されていました。

陸上選手である大迫さんに密着して撮った写真と聞くと、そこに写っているものとしてイメージされるのは、走っているシーンではないかと思います(町中を颯爽と駆け抜ける姿だったり、ゴールテープを切る瞬間だったり)。スポーツ選手の写真なんだから、当然プレー中の写真だろうと思うのが「常」かと思いますが、そういう意味では松本さんの撮影する写真は「異常」の方に分類されると思います。

それは、スポーツカメラマンが使う様な、どデカいレンズを使って、選手の顔が大きく写る写真をバシバシ撮っている訳ではないからです。生まれた瞬間から、笑ってる時も泣いている時も写真を撮り続ける親の様に、良い時も悪い時も、そっと近くにいて、撮っている。スポーツを1つの軸として生きる1人の人間としての大迫選手を写真に収めている。そんな松本さんの姿勢と写真に、首尾一貫、魅了されていました。

そして、たまたまですが、松本さんにご挨拶をさせて頂くこともできました。「ここにある写真は、どれくらいの期間で撮影されたんですか?」と尋ねると、「ボストンの時からだから、6年くらいですかね。」と教えてくださいました。

6年。6年。6年...と頭の中で、その長さをイメージしてみる。小学校に入学した子が卒業してしまうな。いや、生まれた子が小学校に入学する位か。そういえば、社会人になってからまだ6年も経ってないな。と、色々なパターンで想像を膨らませてみましたが、6年というのは、サラッと流せるほど短い時間ではないことを感じました。

しかし、私はそのことをヒシヒシと感じながらも、次の質問をぶつけてみることに。

「自分から大迫さんに声を掛けて撮影されたんですか?」

すると松本さんは、もともと取材で面識はあったものの、改めて彼のことを撮りたいと思い、声を掛けてボストンで撮影させてもらったこと。そこから大迫さんをたくさん撮る様になったこと。陸上以外に、野球の撮影もしたりすること。競技に関わらず、興味がある人の撮影をしていること。そういう色々なことを教えてくださいました。

誰もが1度は目にしたことがある雑誌や広告を撮影されている写真家の方でも、撮影をさせて欲しいと自分から声を掛けたり、撮りたいもののために海外まで飛んで行ったり。そういう「写真には写らない行動」が、今回目にした数々の写真の裏にあることを感じました。

そして、人の心を打つのは、周りからよく見られたいという気持ちからの行動ではなく、純粋な心からくる行動なんだとも感じました。どうしても撮りたいからお願いします、と、声を掛けた松本さんの気持ちを感じたから、大迫さんは撮影を承諾したのかもしれないなと勝手に想像してしまいました。これは、勝手な想像ですが...。

それから、写真は自由なんだと改めて思いました。スポーツを撮るなら、どデカいレンズを使わないといけないという固定概念は、良い意味で崩れ落ちました。何かを伝える、残すにあたって1番大事なのは、周りと同じ道具を揃えて、周りと同じフィールドに立つことではなくて、目的の為に何が1番マッチしている方法なのかを考えて、行動することなのではないかと感じました。周りや今までと同じ方法だけが正解ではないということです。

もちろん、過去の歴史や風習を全否定するつもりはありません。ただ、「こうあるべきだ」という「あるべき論」は私の中から消え去り、自分が考える最適解の為に行動あるのみだ、というマインドが持てる様になりました。

決して走っていなくても、飛んでいなくても、投げていなくても、動いていなくても、その人自身が写っていなくても、どデカいレンズでアップで撮らなくても、写真でスポーツを伝えることはできるんだと。松本さんと大迫さんの「HARD WORK」を目にして、そう感じました。新しい方法を悪とするのではなく、受け入れ、やってみる。そうやって、新しい正解の形を追い求めていくことが、結果として多くの人の心に届く何かを生み出すのではないかと。

新しい正解の形を、成功の形を探す愚か者たち。愚かな人たち。なんでこういう良いシステムが日本にあるのに、そこをわざわざ離れて、違う形で成功してるのって思われがちだけど、そういう人たちが新しいものを作っていく。そういう人たちこそがプロフェッショナルなんだと思う。

ープロフェッショナル 仕事の流儀よりー
プロフェッショナルとは?の問いに対する
大迫選手のこたえ


(写真・文:小野大介)

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