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【佐々木主浩】横浜のマウンドにアイツが仁王立ちしたら試合終了の合図と敵将に言わしめたハマの大魔神は海を渡りメジャーリーグでも並みいる強打者を封じ込め世界の大魔神になった日本が生んだ最強の守護神

おはようございます。
世界で戦うために、海を渡ったサムライたち。
今回は、佐々木 主浩(ささき かづひろ)さんを取り上げていきます。

https://www.youtube.com/watch?v=MKJi82P8VCM&t=86s

森永乳業に勤める父親の影響で水代わりに飲んでいた
牛乳のおかげか、幼稚園の頃から背が高く、
3歳の時にビニールのバットとボールを
買ってもらったことから野球に出会いました。

小学校でも頭一つ抜けて大きく、
宮城県仙台市の少年野球チームでは
エースで4番となり、中学校の野球部に入ると
主に野手として活躍します。

身長185センチまで伸びた立派な体格から
野球の強豪校である東北高校にスカウトされますが、
両親や担任の先生からお前じゃ無理だと反対されました。

しかしその反対を押し切って進学した佐々木は、
後に阪神タイガースに入団する同級生、葛西稔や
横浜ベイスターズでも一緒になる後輩の斎藤隆らとともに、
持病の腰痛とも闘いながら
2年の夏からエースとして甲子園に3回出場、
3年の春夏ともにベスト8まで進出しました。

当時の球種はストレートとカーブのみでしたが、
卒業後はプロからの誘いもあったものの、
腰痛の懸念や両親の希望もあり、大学進学の道を選びます。

大学はオシャレな青山学院へ行きたかった佐々木でしたが
監督から、お前は東京へ行ったら遊ぶから駄目だと反対され、
黄金期を迎えていた地元の東北福祉大学へ進学すると、

のちにプロの世界で共にしのぎを削る、
大塚孝二(おおつか こうじ)、矢野輝弘(やの あきひろ)
金本知憲(かねもと ともあき)らとチームメイトになりました。

1年生の時に理不尽な先輩とケンカ、懲罰で八回も坊主されるという
ヤンチャな記録はいまだに破られていないそうですが、
野球の実力は折り紙付き。
腰痛が快方に向かった3年の春には、フォークボールをマスターして
無傷の11勝、防御率0.39という数字を残し、
全日本大学野球選手権で2度の準優勝を飾ると
即戦力の投手として1989年、ドラフト上位指名の目玉となりました。

ただ本人は腰の手術を受けたこともあり、僕は欠陥商品ですから、と
プロ入りを拒否、社会人のヤマハへ進むつもりでしたが
横浜大洋ホエールズが1位で強行指名して説得。

入団させると、2月22日、午後2時22分に生まれたことから
背番号は自身のラッキーナンバー
22に決まり、プロ野球選手としてスタートラインに立ったのです。

入団1年目は須藤監督のチームで最もいい投手が抑えをやるべき
という方針から
遠藤一彦が抑えを務め、佐々木は先発として起用されていましたが
翌年、遠藤の故障により抑えを任されると、
速球と落差のあるフォークボールを武器に
一気にその才能が開花、8月には
見逃し5球、空振り4球の三者連続3球三振と
1球もバットに触れさせることなく抑え込みました。

1992年には開幕から1年間ストッパーを努め、
中継ぎの盛田幸妃から佐々木への継投リレーが勝利の方程式とされ
他球団からは、横浜との試合は盛田、佐々木の登板しない
7回までが勝負だと言われていました。
この年、見事、最優秀救援投手に輝くと、

1994年頃から大映のキャラクター「大魔神」に似ていて
新聞記者が相手チームの前に立ちはだかる魔人と表現したことから
「ハマの大魔神」という異名(いみょう)が定着、
1995年、30セーブ越えに防御率1点台、史上最速となる500奪三振に
3年ぶりの最優秀救援投手にも輝き、
横浜の生え抜き投手としては
初の1億円プレイヤーとなったのでした。

1996年も最優秀救援投手を獲得、さらに
1997年にはシーズン無敗、防御率0点台という
絶対的守護神となり、万年最下位だったチームの
2位躍進の立役者となり
3年連続の最優秀救援投手のタイトルも獲得します。

そして、佐々木が伝説となる年、1998年は、
51試合に投げて防御率0.64、212人の打者と対決して被本塁打1。
自責点はたったの4点。
22試合連続セーブポイントに通算194セーブ、
史上初の2年連続30セーブ以上、
歴代最多45セーブに、4年連続の
最優秀救援投手賞など、当時の
日本記録を次々と塗り替えていくと、

自ら生涯のベストゲームと称する10月8日。
9回裏、新庄を三振に切ってとり
38年ぶりにリーグ優勝した横浜の胴上げ投手と
なったのです。

西武ライオンズとの日本シリーズでも胴上げ投手となり、
MVP、正力松太郎賞、日本プロスポーツ大賞など
賞レースを総なめ。年俸も5億円に達し、
ハマの大魔神は、流行語大賞を受賞するなど
社会現象となりました。

1999年、ついにFA権を取得、メジャー10球団以上が
獲得に乗り出しますが、シアトルの街が気に入った事と
筆頭オーナーが任天堂である事から、
3年15億、出来高払い最大5億、背番号は22、という
日本人メジャー過去最高の待遇で
シアトルマリナーズに入団することが発表されました。

日本で実績のある佐々木であっても、レギュラー安泰ではないのが
メジャーリーグの世界。

スプリングトレーニングで同じくクローザー候補のホセ・メサと熾烈な
ポジション争いを繰り広げながら、ついに
2000年4月5日のボストン・レッドソックス戦でメジャー初登板。
1回を無失点に抑える上々のデビューを飾ると
2試合目、3点リードの9回にマウンドに上がり3者連続三振で初セーブを
マークします。

開幕当初はクローザーと中継ぎを入れ替わりながらの
登板でしたが、すぐにチームの守護神として定着。
6月12日には日本人最多の10セーブ目を挙げ、
最終的にリリーフ投手中リーグ1位の奪三振率11.20に
当時のメジャー新人記録の37セーブで、ヤンキースの
マリアノ・リベラの36セーブを上回り、アメリカンリーグ新人王にも
選ばれました。
進出したポストシーズンでも、4試合に登板し
無失点の投球で3セーブと日本時代同様の活躍を見せます。

翌2001年はイチローがチームに加入、日本が生んだ
最強のクローザーと世界的な天才バッターがタッグを組み、
チームも絶好調、佐々木も4月のメジャー最多記録となる
月間13セーブを挙げると、シーズン通じて45セーブと安定した
成績を残しただけでなく、日本人コンビの活躍でマリナーズは
シーズン最多タイ記録の116勝をマークしました。

3年目となる2002年は史上最速となるメジャー通算160試合目での
100セーブ到達や2年連続オールスターゲーム選出など
メジャーを代表するクローザーとなり、37セーブをあげ、
3年連続、60登板、30セーブを達成します。

これは2013年、MLBで日本人初のリーグチャンピオンシップおよび
ワールドシリーズ胴上げ投手となったボストン・レッドソックスの
クローザー、上原浩治も
達成していない記録となりました。

オフに2年17億円で契約を更新しましたが
長年、酷使してきた右ひじが悲鳴を上げたため
手術に踏み切った翌年、右腰の負傷により
初の故障者リスト入りも経験します。

シーズン終了後、日本に残してきた家族や
子供たちと暮らしながら野球がしたいと、と帰国を決意、
日本に戻るならベイスターズ以外にないと
明言して、2年13億円で横浜復帰が発表されました。

日本球界復帰の第一戦、4月6日に通算230個目となる
セーブを挙げ、変わらぬ安定した成績を挙げましたが
球威の衰えなどもあり引退の意向を球団に相談したところ、
慰留を受けて一時撤回します。

この間に憧れの佐々木からアドバイスを受けて
才能が開花したクルーンが抑えとして台頭してきたこともあり、
翌年8月7日に現役引退を表明したのでした。

高校時代、監督から鉄拳制裁を受け、
片方の頬を腫らして帰宅した我が子を見て
何で反対側も殴られて来ないんだ!
バランスよく叩いてもらいなさい。というほどの
肝っ玉母ちゃんに支えられて野球を続けてきた佐々木は

最後はお袋の前で投げたいとの希望により、8月9日、ふるさと仙台の
フルキャストスタジアムで行われた巨人戦で、
高校時代からのライバルで親友でもある清原を
伝家の宝刀フォークボールで三振に仕留めたのでした。

10月8日の横浜スタジアムでのヤクルト戦。
最終登板する予定でしたが、試合での登板はチームに
迷惑をかけるとして自ら辞退、セレモニーのみとなりましたが
その引退挨拶で「生涯野球人であることを誓います」と述べたのでした

現役引退後はラジオの野球解説者や
韓国プロ野球・LGツインズの臨時インストラクターなども
務めましたが、
馬主としてその新たな才能を発揮していきます。

馬の名前はすべて榎本加奈子夫人が付けているという
ヴィルシーナがGIで優勝したり、ヴィブロスがドバイで
好成績を上げるなど、JRAの馬主の中で持ち馬の1レースあたりの
平均賞金額が1位となりました。

そのほか、SUPER GTやスーパー耐久レースに参戦している
レーシングチームの総監督に就任し、
タイのブリーラム県サーキットで行われた雨のレースで
あえて晴れ用のタイヤ選択を自ら決断、見事チームを
表彰台に導くなど多方面で才能を発揮しています。

佐々木といえば190cmの長身から投げ下ろすフォーク。
その落差の大きさから2階からのフォークとも形容され、
他球団から恐れられました。

握力が非常に強く、すべて独学で身につけたフォークは、
リリースの瞬間に手首のスナップを
抑えて球の回転を減らし、高めからストライクゾーンへ落ちていく
カウントを取るための遅いフォークや、
手首を固定せずストレートを投げるときのようにスナップを効かせて
投げ込む140キロを超える三振を奪うための速いフォーク、
縫い目にかけた人さし指と中指の力を加減した
スライダーのように左右へ曲がるフォークなど数種類のフォークボールを
投げ分けていました。

また握りで球種を見破られる事を防ぐために
横幅の広い特注のグラブを作り、リリースの瞬間に速球の握りから
フォークの握りに変えるなど打者を翻弄、
名将、野村監督はフォームの癖を懸命に見つけ出そうとしましたが
最後まで見つけられなかったと言います。

またウイニングショットに加え、
最速154kmの速球とマリナーズのダン・ウィルソン捕手が評価していた
120km台のカーブ、さらにカットボールも習得し
巨人時代の松井秀喜は25打数2安打、打率0割8分と、
佐々木を大の苦手としていました。

試合前、大好物のプリンを食べてリラックス、試合展開を見ながら
7回からブルペン入りすると、カーブから入ってストレートを8球、
10球目に全力でフォークを投げ込んで、調整終了、
名前がコールされた時点で試合終了とまで言われたハマの大魔神に
変身するのでした。

各球団の抑え投手を「◯◯(まるまる)魔神」と呼ぶようになり、速球と
縦の変化球がクローザーの条件とされ、200勝以上、2000本安打以上が
参加資格だった名球会に250セーブ以上という規約改定が追加されたことも
佐々木による影響が大きいと言われています。

日本のみならずメジャー関係者からも超一流の
救援投手とされ、アメリカのスポーツ誌が選出した各チームの
最も記憶に残るクローザー部門で

カズヒロ・ササキは実働4年で通算129セーブ、新人王に
2度のオールスター選出、マリナーズの記録的な116勝を挙げた年に
45セーブの活躍だった、として選出されました。

他のア・リーグ球団ではヤンキースがマリアーノ・リベラ、
レッドソックスがジョナサン・パベルボンなど。
ナ・リーグ球団ではドジャースがエリック・ガニエ、
パドレスがトレバー・ホフマン、
レッズがアロルディス・チャップマンらが選ばれている事を考えると、
その凄さが改めて理解できるのです。

横浜時代にバッテリーを組んだ谷繁がメジャー移籍を目指していると
聞くと、任天堂の本社を訪れ獲得を進言したり、
ライバルだった清原が逮捕された際の裁判には
親友だからと、情状証人として出廷するほど面倒見のいい佐々木は、

小学校時代の自身の経験から、中学生までは技術的な指導はせず、
楽しく野球をやらせるべきとの考えを持ち、
大学在学中には高校野球の指導者になるため、
教員資格を取得しており、第二の大魔神を育成する日が
近い将来やってくるかもしれません。

クローザーは、あいつが出てきたらもうダメだと
絶望感を与えなければいけないんです、そのためには三振を奪い
完全に牛耳らなければなりません。もう味方の攻撃がないという場面で
出るわけで、打たれる事が許されないプレッシャーは
ケタ違いです。生まれ変わったら、しんどいから野球はしないけど
もしまた野球やるならクローザーをするかもしれません。と
語っています。

この男がマウンドに立てば、ファンは勝利を確信し、
敵は早々に試合を諦めるほどの絶対的な力を持ち、
最後の1球を託される責任と重圧を受け止めながら
日米通算381セーブを挙げた、大魔神。
佐々木 主浩。

いかがでしたでしょうか?

これからも海を渡り、世界で戦った
偉大なサムライたちをご紹介していきますので
是非ご登録よろしくお願いいたします。

ご視聴ありがとうございました

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