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白い眼

この街に子供たちと住んで、もう二十年以上が経った。

子供たちを育てていた時間に様々な人々と知り合いになった。

中には、子供たちの同級生や同じマンションで同じ学校に通う子供同士の親たちとも交流を深めた時期もあった。

いわゆるママ友やパパ友という人間たちとも、それなりに交際して仲良くなった。

しかし、子供たちが成長すると自然に交流は無くなり、今では街で会っても挨拶すらなく、眼も合わせることもなく、擦れ違い通り過ぎて行く。

何とも言えない気まずさと、一抹の寂しさに襲われるものだが、そんな時代なのだろう。

パパ友はともかく、ママ友同士の当時のここだけの話のようなものが、未だに尾鰭が付いて、街の知り合いの人々の認識の中に浮遊していて、街で偶然、かつてのママ友であった人間たちと顔を合わせると、どこまで我が家の個人情報が流れているのか分からず、疑心暗鬼になることがある。

女性同士のぶっちゃけ話の過激なことは、僕の耳にも入って来ていたのだから、こちらの話も伝わっていると考えたほうが無難だろう。

旦那の職業や学歴、また義理の親族の悪口、果てはその宗教問題までが話題に昇るのだから女性は怖い。

旦那の地位や肩書きでマウンティングを繰り返し、様々な情報が無責任にSNSを介して即座に伝わっている。

仮に間違っていても、我々、男たちには訂正する手段がない。

港区ならまだしも、この街で上下関係を張り合っても仕方がないだろうとも思うのだが、まるでソドムとゴモラのような人々は、実にくだらない見栄の張り合いをしていたものだ。

我が家など最低辺のカーストだったので、肩身の狭いこと、この上なかった。

どうして日本社会では、こんなにも不毛な話をしているのか不思議でならなかったが、人と違うことを認めず、平均と普通を強要される社会においては、中心から上にも下にもずれていれば、否応なく関心を持たれてしまうのだろう。

偏差値教育が蔓延しているせいなのか、上から順にあらゆる属性を並べ立てて、まるで競争馬のように評価されるのも辛いものだ。

良くない噂は忽ち千里を走るが如く伝わり、昔の知り合いにマンションのエレベーターなどで出くわすと、何時もは眼も合わせずに通り過ぎて行くのだが、敢えて蔑むように白い眼でじろりと睨んで来ることがある。

また良くない噂話が広まっているのかと、げんなりとした気分になるのだが確認のしようもない。

いつものことだ。時間が経てば飽きて忘れるのだろう。

しかし、心の中を覗き込むような、あの眼差しは、幾つになっても嫌なものだ。

かつて、僕の小、中学校時代に仲が良かった友だちが、ある朝、駅前のパチンコ屋の長い行列に並んでいる姿を見かけたことがあった。

僕の眼が彼を蔑んでいると感じたのか、彼と眼が合った一瞬の眼差しで、彼の眼が語っているようだった。

立場は変わり、今度は自分がそういう眼で見られるようになっている。

眼は口ほどにものをいうものであり、口は災いの元であることは歳を重ねるにつれ、ずっしりと実感されるものだ。

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