つみのかじつは夢をみせる【編集版⑫】

 引っ越しがいよいよ目前に迫ってきて、相変わらず片付いていない部屋の状況にうんざりする。週末のライブに着ていくTシャツは段ボールの中だ。やらかした。衣替えした時「次は夏」などと思っていたからだ。明日の夜準備することにした。

 昨日の続き。今日は「歌舞伎町の女王」。この楽曲、何時聴いても私を強くしてくれる。

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明日もここで私は生きると決める~「歌舞伎町の女王」~

 8月である。今年はまだ聞いていないが、蝉の声が聞こえてきてもおかしくない季節である。この暑さで蝉も鳴きたくないのだろうか。それでは困る。何故なら今書こうとしている曲の歌い出しに蝉が出てくるのだ。雰囲気は大事にしたい。私は正確さと同じくらい雰囲気を大事にしたい。選ぶ言葉もそこにふさわしいものにしたい。なのに。実家に帰省したら聞けるだろうか。でもそれを待っていたら夏どころかあっという間に季節が過ぎて提出に間に合わなくなってしまう。それだけは絶対避けなければならないので決心して、ついでに蝉のことはいったん忘れて書き始めることにした。期限は待っていてくれないのである。現実は厳しい。
 「歌舞伎町の女王」は1枚目のアルバム『無罪モラトリアム』に収録されていて、シングルカットもされており、トリビュートアルバム『アダムとイヴの林檎』では、小説家の誉田哲也がこの曲を題材にして書いた小説『歌舞伎町の女王―再会―』がブックレットに掲載されている。個人的には2018年の実演『(生)林檎博′18―不惑の余裕―』の円盤でみた演出が最高にかっこよかったと思っている。
 その話は置いといて。この曲はフィクションである。だが、1998年、当時まだ19歳で福岡から上京しデビューした彼女を思えば只の作り話、というよりも、フィクションを利用した彼女なりの意志表示だとか、決意表明みたいなものに感じる。それはプロの音楽家としてやっていくこと、というよりも音楽を作って歌っていくことを生業として生きる独りの人間としてのものなのではないか、と考える。
 19歳、と言えば人生の中でも大半の人が人生の節目になるような年齢ではないだろうか。進学や就職で親元を離れる人が多いのがこの年齢だ。筆者も進学のため19歳になる年に親元を離れて札幌に引っ越してきた。基本寂しがり屋なので、引っ越しが終わって母が地元に戻っていくのを見送ったあとは泣きたくなったのを憶えている。
 ただ、この曲で描かれた女の子は違った。1番は幼少期に魅せられた歌舞伎町の女王だった【ママ】が【毎週金曜日に来ていた男】と消えた15歳になった時の自分を回顧している様子が描かれている。そして2番では1番での回顧を踏まえたうえで新宿駅東口の大遊戯場・歌舞伎町で消えていった女=【ママ】の代わりに娘である【あたし】が女王の看板を誇らしげに掲げて生きていくという決意が描かれている。しかもただ生き抜くだけではなく〈「一度栄し者でも必ずや衰えゆく」その意味を知るときを迎え〉たからという理由も存在する。それだけ強い意志によって女王という看板を掲げる覚悟を決めたことがうかがえる。強いのだ。自分でちゃんと地に足着けて立っているのである。
 『無罪モラトリアム』はハイティーンゆえの悩みだとか葛藤だとか、そういうの全部ひっくるめた孤独だとかあとは目まぐるしくかわる気分だとか、そういうのを描いている、例えるなら。その中でもこの曲はとても強い意志をもった曲で、これはハイティーンの人たちだけではなく、それ以外の年代の人にも刺さるのではないか。日々色々な情報に呑まれ、心無い言葉に傷つけられ、なんとなく何かに縋ったりしないと立てないことも今の時代には多い。そんなときにこの曲を聴くとここで頑張るんだ、と心に決めたときのことを思い出して「明日も生きよう」と思えるのである。特にこのアルバムが描いているハイティーンに近い年齢の女の子たちはより強くそう思うのではないだろうか。
 あと、これは余談だが、この曲を聴きながら歩いていると無双した気分になれる。誰が攻撃してきても傷つかない鎧を身に纏った強い女になれた気がするのだ。あくまで気分なのだが。ただそうしているだけで普段何気ない一言で簡単にポッキリと折れてしまいそうな心も、その時間だけは強くなることが出来る。彼女の楽曲にはそういう効果もあるのだということも記しておきたい。

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 私はこれから社会人になるのだが、これからも「歌舞伎町の女王」という甲冑を身に纏って自分に強く在りたいと思う。

知識をつけたり心を豊かにするために使います。家族に美味しいもの買って帰省するためにも使います。