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現代人に『スカイ・クロラ』を

『トップガンマーヴェリック』がようやく公開されてしかも盛況とのこと.予告のあるシーンで映画『スカイ・クロラ』を思い出し、その勢いで書きました.考察というよりネタバレなしの紹介記事に近いものになります.

1.スカイ・クロラ?

2008年公開の『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』は、押井守監督のアニメ映画です(以下「クロラ」と略す.原作は森博嗣さんの同名小説).トップガンとは戦闘機以外何の関連もないですが(しかも片や最新鋭ジェット機、片や前世紀のプロペラ(レシプロ)機)、次のシーンが私の記憶の中のクロラを引きずり出しました.

手前の機体が機首を上げ失速し、
機体の後方に回る.いずれもトップガンマーヴェリック

上記シーンは、空戦機動の中でもストール・マニューバ(失速後機動)に位置づけられるコブラという技です(たぶん).クロラでは度々登場します.

前方に飛ぶ機体が機種を上げて、
失速を利用し後方に回り込む
別シーン.奥の機体に追われる手前の機体が機首を上げ、
(手前から奥に)後方に回り込む.いずれもスカイクロラのドッグファイトシーン


10年以上前の映像に拘らず、クロラの戦闘機シーンの迫力には凄まじいものがあります.もっともクロラは興行的には振るわず、また往年のファンからも否定的な評価が多数派という印象を持ちます.参考までに公開が同時期の『ポニョ』との比較.

『スカイ・クロラ』
興行収入:7億円
製作費:約4億円(300万USドルから計算)

『崖の上のポニョ』
興行収入:155億円
製作費:34億円

両作品がさまざまな点で異なるため、2つを並べる意義よりも並べる際の注意書きの方が多くなるかもしれません.それでもいずれもトップレベルの監督作品であるにもかからわず興行でこれほど差がついたのはどうしてか、というのは興味深い問題です(ここで考えることはしませんが).あるいはポニョと比べるまでもなくクロラが不振だったこと、それ自体個人的にはとても気になるテーマです.

さて、知らない方のために述べると、押井守といえば難解な長台詞、長尺カット、蘊蓄うんちくの披露を多用し観客を煙に巻くような作風.普通のコンディションで向き合うと大抵ねむくなること必至です.もっとも、次に引用する脚本家・虚淵玄さんの話は、押井作品全体について尋ねられた際の回答ですが、押井作品を鑑賞する上で参考になります[註1].

〔押井作品は〕スクリーンの前で見終わった後に一人ぼっちにさせられる作品.というのが僕の中では共通するものかなと.あんまりね、友達連れて観に行こうという気になれないんですよ(笑).ほっといてくれという気分になっちゃうんですよ.

ひとりぼっちで隠れ家に籠れるみたいな、そういう静けさというか、じっくり考えさせてもらえる時間というみたいなのが、そういうところがどの作品にも共通して感じるところだと思います.

押井守×虚淵玄 LINE live 2016より.〔〕内引用者補足以下同じ

共感できる見方であるとともに、興行的不振に対する見事なフォローでもあります(ジブリは家族連れを対象にしている).またこれを受けて押井さん.

自分にとっては映画はそういうもの〔1人で没頭するもの〕だった.高校くらいから映画の時間は他の生活の中では特別の時間で.映画館の暗闇の中に周りに人がいっぱいいるんだけど、独りでスクリーンに向き合っている.それが病みつきになった.

拍手喝采とかそういう見方をする映画もあるし、実際に学生の時にそういうこともやったしオールナイトってそういう場だったから.(中略)〔けれども〕もしかしたら自分の実になるのかな、単にキレイなもの観たいというか楽しみたいというだけじゃなく、それよりもうちょっと欲をかいて.

普段の生活の中では絶対に味わえない時間.リッチな体験.リッチなものを見たと思わせてくれないと不満だった.今でもどういう作品やっても、基本的にはすごいもの見せてもらった、いいもの見せてもらったと〔観客に思わせることが〕自分の中では〔映画作りで目指す〕第1条件.

同上

こういった押井さんの映画づくりに対する意識が作品に独特の雰囲気を与えています.もっともクロラに関しては、これまで確立してきた作風を封印してまで、若者に伝えたいことがあるといたる所で語ってもいます(それまでの作品の主人公はだいたい30歳以上だし対象もそれなりとのこと).

したがって先ほどの興行的不振にはさぞかしガッカリしたことでしょう.若者受けのために自分を封印したのにダメなのかと.いつぞやのジブリの鈴木さんとの対談ではポニョへの口調の激しさにそうした不満が如実に表れているように思えました.

そういうわけでこうした彼の意気込みに鑑みると、スカイクロラは彼の作品の中でも不遇な部類といえます.個人的にクロラという作品は、押井守を未体験の方に何か1つという際、この作品かなという位置付けです(間口の広さ的に.押井入門とはあえて言いません).

そこで夏を感じる作品ではまったくありませんが、青空がきれいという点で梅雨が明けたら観たい作品として皆さんの予定にねじ込むべく、今回このスカイ・クロラについて書こうと思うわけです.



2.作品の前提知識

はじめにクロラを観る前に頭に入れておくべき事項を確認しましょう.まず、大きなところからいくと、作品の舞台はありえた“もう1つの現代“ということです.

とはいっても所詮はアニメという架空の世界であることに加え、以下で見ていく作品固有の諸設定があるため、現代のお話という前提は鑑賞中に忘れてしまいがちです.ですが押井さんの諸々の演出を理解するために押さえておきたいポイントなのです.

それではもう少し立ち入って世界設定をみていきましょう(末尾の参考文献を参照[註2]).

〈世界、時代設定〉
“もう1つの現代“というのは、仮に先の世界大戦でアメリカが介入しなかった(モンロー主義を貫いた)なら至ったであろう世界の1つというものになります.どういうことかというと、WW2が現在とは異なる終わり方をした結果、その後各地域で独立戦争は起こらず、冷戦も起きず、世界は恒久的な平和を実現したという設定です.

〈ショーとしての戦争〉
では、なんで主人公たちは戦闘機で戦っているのかといえば、人々が生きている実感を持つために戦争を必要としていたからです.これはこの作品の世界観の基礎にある人間観であり、観る者はひとまずこの前提を受け入れなければいけません.そこでは人類は平和を維持するために逆説的にも戦争が起こされ、その際、戦争は民間軍事会社同士にさせるかたちで起きています.したがって、我々が知っている戦争と異なり、一般市民への攻撃や被害は一切ない戦争が繰り広げられています.

そして戦争が絶えず求められるということは戦争は終わってはならないことを意味します.そのため相手に壊滅的な打撃を与える原爆等の大量破壊兵器が開発されることはありません.また、軍拡競争もないため現代のジェット機が開発されることもなく、大戦期に活躍したプロペラ(レシプロ)機の性能を限界まで上げる方向に力が注がれているということのようです.劇中、携帯電話やスマホが登場しないのもこのあたりに理由がありそうです.

〈キルドレ〉
主人公含む民間軍事会社に雇われている戦闘員はキルドレと呼ばれる人たち.思春期で成長が止まり、戦闘で死なない限り永遠に生き続ける存在です.技術の詳細は不明.ここではネタバレもあるのでこれ以上は触れられません.

なお身体は子どもですが軍人扱いということもあり、キルドレは飲酒喫煙なんでもありです.公開当時、子どもの喫煙シーンということで禁煙団体から苦情が殺到したとか.

概ねこんな感じです.劇中身の回りのガジェットに用いられている技術が旧いため少し前の時代という印象を抱いてしまい、現代という設定が忘れられがちなのです.もっともどうしてそんなに現代にこだわるのかと言われれば、それはこのキルドレに現代人を重ねて観てほしいからです.

細かい点ですが押井さんは次のように言います.長いですが引用しましょう.

キルドレというものに実態があるかどうかも、誰もわからない.僕は、映画の中でキルドレが本当にいるとは一言も言っていないんですよ.あの世界の彼らがそう思い込んでいるにすぎない.死なないと言っても、キルドレが生まれてから20年も経っていないんだから、どうやって証明するの?100年経って、まだ生きています、まだ子供の顔をしていますとなれば別だけど、それまでキルドレという現実は思い込みにすぎないんだよね.(中略)キルドレというのは、ある種の願望にすぎないんですよ.無意識の産物.もっと言えば神話にすぎない.少なくとも、今回は演出上でそういう余地を残したんです.そうでなかったら、この映画はSFになってしまう.SFというのは、設定を語ることがドラマになっている.僕はこの映画を、キルドレというSF的設定の謎解き映画にする気は無かったから.キルドレは、今を生きている人間の象徴として使っているだけであって、あくまでシンボルなんですよ.

宝島15頁

文章の前半だけを真に受けると、これまで説明してきた世界観が動揺してしまいます.え、キルドレって嘘なの?という.ですが後半の彼独自の方法論を前提にすれば、要するにそうまでしても現代人とリンクさせたい、そのための演出ということになります.

この作品の世界を成り立たせているキルドレの設定を動揺させるこうした手法には賛否あるでしょうが、片や永遠に生きる人たちに感情移入なんてできないよという予想される一部視聴者の反応に備えたということでしょう.

さらに、永遠に繰り返される日常を送るキルドレを描くことには2つポイントがあります.1つは、ある種彼らと似た感覚にあると思われる若者たちを彼らに重ねること.

もう1つは、あえてそうした非現実の存在を描いて見せることで、翻って1度きりの生を営む現実の私たち.の生について考えさせるという意図も実はあるわけです(押井作品ではお馴染み.外国を知ることが母国を知ることにつながるといったものと言えばいいでしょうか).なのでキルドレの設定は押井さんにとっては観る者が考えるきっかけとしての装置にすぎない.上記押井発言の意図についてこのような指摘もできるかと思います.



3.今みる『スカイ・クロラ』

ところでこの映画を紹介するにしても、2008年の作品を今さらじゃないかというそもそもの話があります.今観ることの意義については、この記事がほんの些細なきっかけで書かれていることもあり、語れることはありません.

もっとも、公開から14年という時の経過をこの映画は耐えうるか、という問いなら話は別です.ここでもやはり押井さんのインタビューから始めます.

 僕は、映画は基本的にビジョンを示すものであって、ドラマなら文学やテレビドラマに任せとけと思っている.ましてキャラクターなんてものは、時代の産物でしかないから.そのとき限りのもので、10年経ったら誰も気にしないよ.10年経ったらハリソン・フォードだろうがディカプリオだろうが、誰が気にするんだって言うの.
 映画は、1回限りの興行をして商売が3年ぐらいで終わって、それでいいと言うんだったらそれでいいと思うけど…….でも、10年後、20年後のお客さんのことを考えて作品として値打ちを考えて作る映画もあるんですよ.僕としては、公開時にいちばん人気があったからそれでいいなんて、そんないい加減なことでいいのかという思いがあるんですよ.

宝島13頁

いかにも巨匠という感じです.10年後の鑑賞に耐えうるつもりで作っていると.では続いて本作における監督の思いについて、長いですが引用しましょう.

今、映画監督として何をつくるべきか.僕は、今を生きる若い人たちに向けて、何かを言ってあげたいという思いを、強く抱くようになりました.この国には今、飢餓も、革命も、戦争もありません.衣食住に困らず、多くの人が天寿を全うするまで生きてゆける社会を、我々は手に入れました.裏を返せば、それはとても辛いことなのではないか.(中略)物質的には豊かだけれど、今、この国に生きる人々の心の中には、荒涼とした精神的焦土が広がっているように思えてなりません.

ニートやフリーター、渋谷のセンター街で座り込む少女たち.親を殺した少年.彼らを大人の目線で見下し、まるで病名のような名前を与えても、何の本質にも至りません.今こそ、彼らの心の奥底から聞こえる声に耳を澄まし、何かを言ってあげるべきだと思ったのです.(中略)主人公は、生まれながらにして永遠の生を生きることを宿命づけられた子どもたちです.大人になれないのではなく、大人になることを選ばなかったことどもたち.

たとえ、永遠に続く生を生きることになっても、昨日と今日は違う.木々のざわめきや、風の匂い、隣にいる誰かのぬくもり.確かに感じることのできるものを信じて生きてゆく.そうやって見れば僕らが生きているこの世界は、そう捨てたものじゃない.僕はこの映画を通して、今を生きる若者たちに、声高に叫ぶ空虚な正義や、紋切り型の励ましではなく、静かだけど確かな真実の希望を伝えたいのです.

パンフ35頁より.ロングver.が『アニメはいかに夢を見るか』に所収

なんだかアツいじゃないか.これに加えて、そう語りたくなった動機についても話してくれています.これまた長いですが引用します.

娘が大人になり結婚までしたことで、もしかしたら僕もそろそろ若い人との距離が少し見えるようになったんじゃないかという気がしたんですよ.(中略)餌を蒔いとくとか、煙に巻いて騙してひどい目にあわせるとかじゃなくて(笑)、後ろからそっと支えて語りかけてあげる.正座してオレの話を聴けっていう宮さん(宮崎駿監督)みたいなことをやるんじゃなくて(中略)

映画の中で、理想的な人間とか正しい選択、すさまじい努力といった、一種のありうべき姿を語ることで一瞬何かが見えたりすることはあります.また確かに、涙を流すとか感動するといったことも、映画の持っている力には違いない.宮さんがやっている仕事というのはそういうものだと理解しています.

ただ僕がいつも思っていたことですが、素晴らしい人間を描けば描くほど、それを見ている若者たちにとってのプレッシャーになっているんじゃないか.(中略)〔そういったことは〕僕自身はやりたいとは思わない.そうではなくて、世の中には正しいといえる事柄があるんだ、正しい人間がいるかは別として、正しい世の中との接し方というか、ありようというものが依然としてあるんだということだったら語れるんじゃないかと思ったんです.何でもかんでも相対的に語るのではなく、絶対という言葉がどこかにあるんじゃないか.大袈裟にいえば真実みたいなものが.人間が生きていくことの中で確信が持てる事柄、それがどんなにつらいものであったとしても、それを語ることが、最終的にはさっき言った腑に落ちるというか、生きていく上で何か支えになってくれるんじゃないか.

ナビゲーター79頁

制作にあたってこうした動機に誠実でありたい、この点につき今回私はまじめですともいうのです.また、内容は似ていますが別のところではこんな風に言っています.

僕の人生の四季というものが一周してしまったという気がしたんです.ひとりの56歳の男として、若い人に何か言えるかと考えたときに、別に説教をたれようとか、ためになることを言ってあげようとか、希望を語ってあげようとか、依然として思わない.そのようなことは誰にもできないのであって、世の中にはそのような本もたくさんあるかもしれないけど、僕自身若い時はそのようなものを軽蔑していた人間ですから.
それでも、一応長くこれだけ生きてきて、それなりの経験を積んで、様々な経験をした上で、ひとつだけ何か語れるような気がします.
それは、希望と言えるかどうかは別として、やはり人間というのは、「とりあえず生きてみる」ということが大きな値打ちを持っているのではないか、ということです.

(中略)僕が最近思うことは、不幸になることをさせ恐れなければ、あるいは不幸になることを覚悟すれば、さらに積極的に言って自分自身が不幸になるという権利を行使する意志があるならば、人生というものは各々にとって、最も大きな情熱の対象になりうると思うのです.

『アニメはいかに夢を見るか』22頁以下

押井作品を少しでもご覧になった方はお分かりになるように他とは毛色が異なります(ゆえに入門とは言いづらい).クロラには恋愛や、生と死など他にも題材は尽きないわけですが、ひとまず最大のテーマについては理解できたのではないかと思います[註3].そして押井作品であるにも拘らず随分身近になったはずです.

ちなみに若者の生きづらさについては押井さん自身から補足があります.

今の時代を生きている若い人たちの気分…生きている実感を求めたいんだけどもそれが容易に見つからない.自分が死ぬという実感も持ちにくい.そういう宙ぶらりんのところで生きているのか死んでいるのかよくわからない.情熱のありどころを求めてる.自分は何者かになりたいのだけれども何者かというイメージがどうしても持てない.

〔キルドレは〕僕が映画館にいたときだけ生きてる気がしたのと同じなんじゃない.日常に耐えない.日常ってのは重たくて湿っぽくて息苦しくてなま暖かくて真綿で首絞められるようにツライ.いつの時代でも若い人は日常に耐えない.この日常が一生続くと思うだけで頭がおかしくなる.

NHK『映画監督 押井守 妄想を形にする』(2008)より

また、“若者向け“という点についても補足です.

スタートとしては若い人に何か言わなきゃという切迫感があったんだけど、僕の中に.これはもしかしてもっと普遍的な話なのかなという気もしてきたんだよね.

ある意味では自分がなぜ充たされていないのか.なぜ朝目が覚めた時に今日一日も楽しそうだとか、生きることが直ちにある種の充実感とか、達成感とか、喜びとか、そんなことはイメージ的に結びつかないことがあるとすれば、それはなぜなんだろうという…映画を作りながら実はそのことを考えていたわけ.

「スカイ・クロラ 誕生~新生・押井守、進む~」『Count down of Sky Crawlers Count1 Final』

このキルドレの普遍性についてはバンドマンの中村正人さん(DREAMS COME TRUE)の感想に如実に表れています.

すっかり僕は“キルドレ”になっていました.さすがに、永遠の命は持っていないし、戦争のために空を飛ぶ、パイロットのエースでもありませんが、自分の生活がループ状態に入って久しいと悶々としていた僕の心に、押井監督がこの映画を通して伝えたいことが、妙な角度で突き刺さったのです.

パンフ37頁.そこで引用元とされるブログは現在リンク切れ

若者以外も大いにこの映画で盛り上がることはできるというわけです.


さてここまで踏まえて、公開から14年が経とうとする今この作品を観ることについてどう考えましょう.扱われるテーマは普遍的なものですから、作品が時代遅れになるとは感じません.もっとも、もう少し細かく見ていくとどうか.特に時代の変化を踏まえると映画に漂う空気感というものは今の私たちに馴染むものなのか.

先ほどの「この国には今、飢餓も、革命も、戦争もありません.衣食住に困らず、多くの人が天寿を全うするまで生きてゆける社会を、我々は手に入れました」という押井さんの捉えてあ2000年代の雰囲気は今ではだいぶ異なってきました.物質的な豊かさは失われ、社会全体で上記「天寿を全うするまで生きてゆける社会」のイメージを共有することはもはやできなくなっています.これはコロナ禍以前から当てはまることです.

そして、そうした物質的状況の変化は押井さんの指摘する当時の若者の「精神的焦土」にいかなる変化をもたらしたのでしょうか.あるいは何も変わらないのか.

このような個人的な関心からすると、一方でクロラのメッセージは響きにくくなっている感じはします.人々は生死に宙ぶらりんというよりも、ここから落ちることはできない、転落だけは避けたいという焦燥感に覆われているように思うからです.すでに何かに追われて必死なのが現在の若者あるいは現代のキルドレ.退屈な日常を実感として感じることすらままならないかもしれません.そうだとすれば彼らあるいは私たちの精神的焦土というものは、以前とは異なるものであっても不思議ではない.

もう一方で、事態はより深刻という見方もできるかもしれません.若干矛盾をはらむ表現になってしまいますが、漠然とした不安が日常と化してしまっている現代とでもいいますか.そうであるなら監督のメッセージは、以前よりも切実なものに感じられるかもしれません.

いずれにせよ公開から10年以上経った現在でも、この映画は観るに値するものを備えていると感じます.虚淵さんの話に戻りますが、じっくり考えさせてくれる体験を得られる映画であることに変わりはないですし、そもそも感想はその日の気分で変わるものですし.

さて、以上はあくまで特定の角度から見た場合のクロラです.皆さんはこの作品をどのような角度で観て、どういった感想をお持ちになるのでしょうか.実際に作品を観て、その観る行為を通してぜひゆっくり考えてみていただけたらと思います.

最後に.ネタバレ無しといいつつ作品のテーマ1つをこれだけ語ったわけですが、おそらく作品を観た方はそれが余計なことだったとは思わないでしょう.それくらい見所がある作品だからです.

今回は以上になります.最後までお読みいただきありがとうございました.記事の感想はもちろん映画の感想もコメントでお待ちしております.


1:この対話にまどマギの小ネタがあったので紹介します.映画プロデューサーの話になった際、虚淵さんは「僕いっつも悪者にされるんですが、蒼樹うめさんの魔法少女に殺し合いさせようと言い出したのプロデューサーですからね(笑).その思いつきは何なんだと」.このPはおそらく岩上淳宏さんでしょう.まどマギの原作者はMagica Quartet(新房昭之、虚淵玄、蒼樹うめ、アニメ制作会社シャフトの共有筆名)ですが、作品の世界観を構成するそうした具体的な要素がプロデューサー発だったという.

2:参考文献等一覧
公式パンフレット(2008年)
『スカイ・クロラ ナビゲーター』(日本テレビ、2008年)
『スカイ・クロラ オフィシャルガイド』(中央公論新社、2008年)
押井守編著『アニメはいかに夢を見るか』(岩波書店、2008年)
別冊宝島1546号(2008年)
WEBアニメスタイル「スカイ・クロラ関連記事リンク集

3:押井さんの宮崎駿さん像について、それが『風立ちぬ』(2013年)前である点は気にしたいところです.つまり、仮にこの宮崎像が風立ちぬを経て多少印象が変わったとすれば、そこにスカイ・クロラの影響を読み取れる可能性が出てくるということです.『紅の豚』→『スカイ・クロラ』→『風立ちぬ』いずれも戦闘機が絡む作品ですし、この3作を横断すると何か見えてくるものがあるかもしれませんが今後の課題です.

画像:©2008 森博嗣/「スカイ・クロラ」製作委員会

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