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言語芸術家

※ 2024年4月20日に言語芸術家を廃業しました。


前歴

 小学4年生だった。吉行淳之介の「子供の領分」冒頭部だけを提示され、その続きを書くという塾内の小説コンテストがあった。発表日にあらかじめ告げられていた正規の賞の受賞者たちが呼ばれ、受賞作を阿部先生が読み上げた。50人くらいいた級友たちはみんな静かに受賞作の読み上げを聴いた。あるいは自分の名が呼ばれず落胆していたのかもしれない。私も呼ばれなかった。最後に、阿部先生は新しく賞を設けたと告げた。ユーモア賞だったか先生の名を冠した賞だったかは忘れた。その受賞者は私だった。阿部先生は私の小説を読み上げた。数行で笑いが起こった。一行ごとに教室のあちこちで笑いが起こった。ふだん口喧嘩ばかりしている国立大附属小の女の子も顔を真っ赤にして笑っていた。阿部先生も身をよじりながら読んでいた。
 それは、私が言語で他人の感情をくすぐる愉悦を知ったはじめである。
 20代のとき、実家の近所にあった損害保険代理店で働いた。家族経営で社員は10人から20人くらいいた。柔道耳の社長は自己啓発セミナーが好きで、よく外部講師を招き社員向け自己啓発セミナーを開催した。ある自己啓発セミナー、数人でグループをつくり会社の将来像を書いてそれぞれ読み上げた。私は社長と同じグループだった。私が、パソコン担当のヒョロっとした先輩が活躍する将来像を読み上げると、ふだん私を怒鳴ってばかりいる社長が腹を抱えて椅子から転げ落ちそうになって笑っていた。社長の愛人と噂されていた泣き虫の総務担当も泣きながら笑っていた。
 そのとき私は小学4年生の「子供の領分」を思い出した。そして言葉の力に気づいた。

俳人か歌人か詩人

 今は、言語芸術家を名乗っている。しかし、コロナ禍のはじめごろから主に短歌を作っており、放大短歌という大学短歌会もつくった。そのころは歌人のような、一つの詩形式に専念する生き方を志していた。

詩歌トライアスロン

 だが運命はままならない。2023年5月に第9回詩歌トライアスロン三詩型鼎立部門という短歌10首・俳句10句・自由詩1篇で競う新人賞を受賞した。だから歌人・俳人・詩人、どれを名乗ってもよかったけれど、どれを名乗るのも躊躇われた。専念するわけではないからだ。それに、どこかの界隈に属しているように見られるのも意にそぐわない。そして、プロフィール欄に肩書を並べ、どれもできそうに装うのも違うと思った。だからどれも名乗らなかった。得体の知れない者になる他ないような気がした。

言語のあらゆる側面

 詩歌をつくる前から語学が趣味で、大学で単位を取得した言語に英語・中国語・フランス語・アラビア語、辞典を買うまでに至った言語にトルコ語・ラテン語・スペイン語・エスペラントがある。Universala Kongresoでツアーの案内人をした経験もある。また、放送大学の「記号論理学」や「経験論から言語哲学へ」を受講して言語哲学に関心があった。
 語学は自分の母語における常識が他の言語では通じないことを経験し、言語哲学は常識や正しいと直感で信じていたことが必ずしも正しくない理由を述語論理で説明する。それらは、私が詩歌でやりたい表現と近しいと感じていた。
 だから、言語芸術のひとつである詩歌を基盤に、語学や言語学や言語哲学をも射程をおさめるという意味で言語芸術家を名乗った。

言語芸術家宣言

 言語芸術家は言語を習い研究し言語で考えるだけでなく、言語を踏み荒らす。政治家が答弁や記者会見の発言で「日本語を乱す」とか「言葉を軽々しく扱う」と批判されるように、言語を乱す。
 社会や共同体の役に立たないけれど、言葉を使って社会や共同体に必死にしがみつこうとする全ての人が言語芸術家の師である。

誤記

 藤原定家は明月記を愚記と呼んでいたという。それに倣い日記として誤記を綴る。自分の思いが他人へ誤配されてしまうように、私は自分の思いを誤記してゆく。紅旗征戎非吾事。

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