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「ちょっと手伝って」と誰もが声をかけ合える街へ。ときわ平まちの人インタビューvol.5 平野将人さん(地域社会活動家)

常盤平の街で暮らし、働く人々にインタビューを行い、これからの常盤平の街の変化の兆しを探るインタビュー「ときわ平まちの人インタビュー」。

今回ご登場いただいたのは、平野将人さん。カンボジアやラオスでのNGO活動などを経て、現在は常盤平団地の自治会活動に深く携わるほか、外国籍の子どもたちの支援など、「地域社会活動家」として松戸を中心とした様々な活動を手掛けています。

今回は、平野さんが常盤平団地を中心とした地域活動に関わることになったきっかけや、常盤平の街について感じていらっしゃることなどをお伺いしました。

ラオスのような、温かみのある場所をつくりたい

−まずは平野さんと常盤平のかかわりから聞かせてください。常盤平に住んでからは何年くらい経ちますか?

平野将人さん(以下平野):常盤平は5年半くらいになりますね。実は常盤平に住む前に、一度松戸市内の別のところに3年半くらい住んでいたので、松戸自体は合計で9年くらいです。

−松戸に住むきっかけはどんなことだったんでしょうか。

平野:元々松戸生まれとか松戸育ちというわけではないんです。最初に松戸に住み始める前は、実はラオスにいたんですね。

−ラオス?

平野:そうです。国際協力NGOで働いていて、ラオスに2回駐在し、計6年ほど暮らしました。1回目の駐在の後、東京拠点になることが決まって、色々住むところを探した時に、条件が折り合ったところがたまたま松戸だったんですね。その後も1年のうち1/3くらいはラオスに滞在する生活を送り、またラオスに行き、そして帰国後に2回目の松戸暮らしになったんです。

−日本で暮らす場所として再び松戸を選ばれた理由には、何があったんでしょうか。

平野:正直なところ、住む場所としてはどこを選んでもよかったんです。1回目に松戸に住んでいた時は、基本的に東京で仕事して帰ってくる場所という感じだったので、あまり松戸に知り合いも多くなかったですし。でも都内へのアクセスの良さなど利便性の高さもわかっていたので、次も松戸がいいかなと。最初はそのくらいの気持ちでした。

−そこから、どうやって常盤平をはじめとした地域活動に繋がっていったんでしょう。

平野:ラオスでの経験が大きかったですね。

−ラオスではどんなことをされていらっしゃったのですか。

平野:自然資源管理などの農村開発の仕事に関わっていました。例えば、村の人たちと話し合いをして、魚の禁猟区を作るようなことですね。
昔は魚をたくさんとる道具はないし、たくさんとっても保存ができないから誰もそんなに取らなかった。でも近代化し、市場にバイクで売りに行くこともできるようになって、乱獲する人も出てきたんですね。それに、以前から禁漁区的な風習はあったようですが、昔は「あの辺の川には精霊が住んでるらしい」「じゃああそこは触らないようにしよう」で話がすんでいた。けれど今はラオスと言えども、若い人を中心に意識も変わってきました。そこで「この区域は何月から何月までは禁漁にしよう」みたいなことを村のみんなで話し合いをして、看板を立ててというようなことをやっていましたね。

平野:ラオスの村って、都会や先進国に比べたら貧しいと言われますが、みんな大家族で暮らしているし、森に行けば食糧は取れる。貧しさ=悲惨のような感じではなくて、むしろ「貧しいながらも楽しい我が家」みたいな温かさがあるところだったんです。街の人たちも、日本と比べたら人に対する警戒心が薄くて、困っていたら必ず誰かが助けてくれた。そこで「これからの時代を幸せに生きていくためには、人と人の繋がりが必要だ」ということを実感したんですね。

それで、日本に戻ると決まった時に、せめて自分の住む周りだけでもラオスのような温かみのある場所にできないかなって思って帰ってきたんです。

−そして松戸の中でも、常盤平団地を選ばれた。

平野:団地に住むということは、自分にとってはある種のプロジェクトでした。団地は、他の住宅地と違い、コミュニティやエリアもある程度決まった範囲の中にあります。なので自分も地域活動に関わりやすいかもしれないと思ったんです。

−地域活動にかかわることを念頭に、常盤平団地に住まわれたんですね。どんな風に自治会の方と関わるようになっていったんですか?

平野:まず、常盤平団地に引っ越して1ヶ月もたたないうちに自治会に顔を出しに行きました。最初は「若い人がきてくれて嬉しい」っていう人もいましたし、中には「この人はどんな人なんだろう」って思っていた人もいたと思います。でも色々な会やイベントに顔を出して、イベント準備では椅子や机を並べるなど体力仕事をしたり、とにかく言われたことをやるようにしました。そんなことを続けるうちに、どのタイミングかはわからないですが、皆さんに受け入れられていったように感じますね。

常盤平団地の中心にある、「望の広場」。自治会のスペースもある

−常盤平団地は団地ができた当初から住んでいる方も多く、自治会の方々の間にも強い信頼関係があると思います。そうしたコミュニティの中に、いわば「新参者」である平野さんが入っていき、受け入れられていく上では、どんなことが大事だったと感じられますか。

平野:特に最初の頃ですが、僕は提案はしないで、基本的にずっと見ていたんです。良かれと思って色々提案する人もいると思うんですけど、僕はそれをしなかった。長年自治会活動をされている中で、皆さんのやり方というものがあるんですよね。まずはそれを大事にすることを意識していました。

やっぱり、まずは信頼してもらわないことには始まらないんです。NGOでラオスやカンボジアに行く前は営業の仕事をしていたんですけど、「この提案だから受け入れる」じゃなくて、「この人がいうことだから受け入れる」ということって絶対にあると実感していました。だからまずはそういう関係性を築けたらいいなと思っていましたね。

様々な魅力の一方にある、「見えていない」という問題

−ここからは平野さんが感じている常盤平の魅力などについてもお聞きできたらと思っています。ずばり、街の魅力ってどんなことでしょうか?

平野:1つはやはり利便性ですね。団地開発が大きかったと思うんですが、常盤平駅からの徒歩圏内に、商業施設だけじゃなく役所関係、郵便局から警察、病院まで何でもありますよね。教育施設も、保育園から中学校まである。

−私も実際に常盤平に住んでいて、本当に便利だなと感じます。

平野:もう1つは、団地を中心にした豊かな緑ですね。国土交通省の施策に定められている「SEGES(シージェス *1)」という緑地評価システムがあるのですが、常盤平団地周辺の緑は、この中でも数少ない居住地での認定を受けているほどなんです。

どうしてこの周辺に緑が残っているのかというと、戦後に無秩序な都市部の拡大を防ぐため都市の周りに緑地帯をつくるという構想があって、そのエリアの1つだったからなんですね。団地を開発する際に、「緑地帯の中で開発をするのはどうなのか」という議論があって、その結果、自然を残しながら開発を行うことになった。ただその後緑地帯の構想が崩れ、松戸全体の開発が進んだ結果、今では逆に緑が残る場所になりました。
最近、この周辺の緑地について専門家が調べたら、珍しい植物も結構あったそうなんです。そういうところををもっとうまくアピールできたらいいんじゃないかなとは思いますね。

平野:それから、これは常盤平団地に関する話になってしまいますが、やっぱり自治会活動は活発だと思いますね。高齢化もしていますが、今もイベントにはかなりの人が集まりますし。
自治会にも5年くらい関わってきて、会えば人の噂話や喧嘩をしたりもするけれど、それも信頼関係があってのこと。日々、そうやって何十年も積み重ねてきたのだということも、だんだん感じるようになりましたね。中には冗談半分ですが「私まだ30年しか住んでいないから何も言えないわよ」って言う方もいるくらいなんですよ。(笑)

−それはすごい・・。(笑)

平野:その一方で、気になっているのは「自分たちが見えていない人たち」のことです。

−「見えていない人たち」とは?

平野:イベントや自治会に来ている方は、やっぱり社交的で健康な方なんです。そうではなく、一人寂しく部屋からあまり出ずに暮らしていたり、周りとの関わりがほとんどないという高齢者の方もいるんですが、そういう方はなかなか見えてこない。自分たちが存在を知ることができないんですね。

それは外国人の方も同じです。今、常盤平団地に住んでいる方の約1割が外国人の方だと言われているのですが、一口に「団地における外国人居住者」と言っても、中国やフィリピン、ネパールやインドネシアなど色々な国からきている人がいて、状況も全然異なります。ある程度生活に余裕がある方もいれば、あまり良い生活環境ではない方もいる。でも、自治会と関わりがある方が少ないので、やっぱり自分たちでは細かいところまで知ることができていない。
この「問題が見えない」という問題は、常盤平団地に限ったことではないと思いますが、社会的に大きいと思いますね。

「ちょっと手伝って」と自分から声をかけられる地域へ

−これまで常盤平の街の魅力から課題までお話ししていただきましたが、平野さんがこれから具体的に取り組んでいきたいことについても教えてください。

平野:僕が今一番力を入れようとしているのは、中国の方とのコミュニケーション、関係性の構築ですね。常盤平団地に暮らしている中国の方には、3,40代の子育て世代が多いそうなんです。だから、皆さんに団地の自治会の活動に参加してもらえたらいいなと思って、団地で配布する新聞に、中国語のチラシを自分で作って載せたりしていますね。

平野さんがご自身で作られた、自治会の餅つきイベントの中国語のチラシ。

平野:それから、子どもの居場所作りに関する活動も進めていきたいと思っています。流通経済大学が、これから団地内に地域拠点を設立するのですが、そこを使わせてもらいながら、子どもの居場所づくりの取り組みを行いたいなと。
今既に、外国人の子どものための勉強会や、子ども食堂の活動にも関わっているので、そうした活動や自治会と居場所づくりを連携していきたいと思い、色々と動き出しているところです。
子どもたちだけでなく、若いお父さんやお母さんたちも、その場所を通じて団地のことに関わってくれるようになったらいいなと思っていますね。

−様々なテーマに取り組もうとされていらっしゃいますが、常盤平に平野さんが関わり続ける理由や思いはどこにあるのでしょうか。

平野:やっぱりラオスでの経験は大きいです。ラオスから帰国してくると、日本の”静けさ”が不思議に感じるんですね。電車に乗っていても、基本的にみんなスマホを覗き込んでいて周りを見ていない。ラオス人は、バスで隣になったらなんとなく「いい天気だね」とか「どこから来たの?」とか話したりするわけですよ。今の日本って、どうしてこんなに他者に無関心なんだろうなと。

それから、日本人は人にものを頼んだり、お願いしたりすることが苦手な方が多いですよね。でも、他者を頼ることができないと本当に行き詰まってしまう。それは「息が詰まる」という意味でも、「先行きが進まなくなる」という意味でもそうで、ますます殺伐とした日本になるんじゃないかと。もうちょっと、困ってたら周りに助けを求められる社会であり、個人になってほしいという気持ちがあるんですね。

ラオスだって、おばあちゃんがバスに乗ってたら自分から「荷物持ちましょうか」って聞く若者ばかりではない。でもおばあちゃん自身が「ちょっと手伝ってよ」って言えるんですね。声をかけられたら、それまで携帯とか見てた子も「はあい」って言ってやる。それでいいんです。

平野:僕は中学校の職業紹介の授業に呼ばれて講演することもあるんですが、そこで言い続けているのは、「とにかく助けを求められる大人になってください」ということ。ラオスの感覚だと、「大人なんだから一人で解決しよう」ではなく、「大人だったらこういうときに誰かに助けてもらおう」っていう発想なんです。それまでに良い人間関係を築いていれば、助けてくれる仲間がいるはず。だから僕は「そういう仲間を作って、いざとなったら遠慮なく助けてと言えるようにしてください」と言っていますね。

−私たちも、まさに先日イベントの時に自治会の皆さんから机や椅子をお借りさせていただきました。

平野:かつての日本には、そうしたベースとなるコミュニティとして会社組織がありましたけど、今はもう社会が変わってきて、会社がそうしたコミュニティ機能を維持できなくなっています。だから、これからのためにも、いよいよちゃんと地域活動をやらないといけない時なんだろうなと思いますね。


ラオスやこれまでの経験を元に、縁もゆかりもない常盤平の街やコミュニティに飛び込んでいった平野さん。
「地域活動は大事」と私自身感じてはいるけれど、そこに入っていくという覚悟のようなものは、そう簡単にはできるわけではありません。

その先には、高齢者や外国人の方など、様々な人々が関わりあう地域活動やコミュニティをつくることができれば、これからの日本の街や人にとっても、一つの指針となるのではないかという平野さんの強い思いがありました。

高齢化、多国籍コミュニティ、少子化。この街だけではなく、日本全国が抱える課題と向き合い、地域活動を育んでいくことができれば、それは常盤平という小さな1つの街からの、今後の日本全体の未来に繋がる大きなロールモデルとなっていくでしょう。

常盤平に住むひとりの住民として、私自身少しずつでも関わりながら、これからの常盤平のコミュニティのあり方に、引き続き注目していきたいと感じています。

常盤平の街の未来の兆しを探すインタビューは続きます。どうぞお楽しみに。

*1 SEGES:企業等によって創出された良好な緑地と日頃の活動、取り組みを評価し、社会・環境に貢献している、良好に維持されている緑地であると認定する制度。https://seges.jp/index.html

(文章・写真 原田恵)


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