見出し画像

宗教の反対語が聖書だった

一年前に「聖書」に出会った


正確には四年前に高次元宇宙人にオススメされて買った本「新アイドル聖書」なるエッセイ写真集が、自分の出会った最初の「聖書」なのだがw。それから高次元宇宙人の教え通りに、縄文や量子や宇宙やヨガやヌーソロジーやカバラやQアノンや陰謀論やリバタリアニズムなどの本が増え、スピの伝道者となった。そして三年後、、、


それらの対極にあった「聖書」に出会った


それまでは「聖書」は宗教の本だと思ってた。なので、自分の人生には無用な本であった。めっちゃくちゃ本を読みまくる人間なのに、世界で飛び抜けてダントツ超絶ベストセラーの世界最古の一冊を、読まないで生きてきた理由は


聖書が宗教の本だと思っていたからなのだ


じぶんは宗教が嫌いだ。ローマ教皇・バチカン市国まわりは聖職者というより性職者というよなニュースがいっぱい流れてたし、創価学会とか統一教会は政治とお金と癒着してる情報であふれてたし、でもその中でもまだちょっとマシだったのが仏教だった。陰陽統合だとか自分を愛そうだとかそういったメッセージ性をふくんでる、優しさのようなものを感じる、肌に合う感覚があったからだ


仏教はまだマシだけど、キリスト教やイスラム教やユダヤ教は、近寄らない対象だった。それといっしょくたんにして、聖書も近寄らない物のひとつだった


あと。宗教は弱い人が逃げ道としてハマるものだと思ってた。自分を信じて自分を強く持ち自分軸で生きることが正しいことだと思っていたし、じぶんは幸い孤独にも強いし楽観的だし仕事のポテンシャルも低くはないし健康だしまた運が良かったので、シンプルに宗教は無用だったのだ。だから宗教の本「聖書」を読むことはなかった


でも。宗教に勧誘されたら、時間があるときはだいたいついていった。モルモン教?のピザパーティに顔を出したこともあるし、統一教会?のビデオ教育みたいなのを見せられたこともある。あとネットワークビジネスなどの儲かる系の話も時間がゆるす限りついていった。好奇心オバケだったので興味あるフリをしてついていくという悪趣味もあったのだが、やっぱり真剣に誘ってる人の言葉を無下にはできないよなという思いもあった


宗教やビジネスの末端にいるのは、外側にあるのは
いい人の優しさや
熱心な人の情熱や
真面目な人の忠実


悪魔はそれらを平気で利用するのだ


人は、自分も含め「説得」では変わらない。むしろガードポジションをピーカーブースタイルをとる。自分を変えようとしてくる人は、今の自分をそのままに受け入れてくれない人。という認識になるので、拒否感をおぼえる。あなたは自分が正しい。自分は間違っていない。と思っていたい人である


人を唯一変えれるのは、魂や霊や愛といった目には見えないもの。あなたは、自分で変わったのではない。人ではない目には見えないなにかに、変えられたのだ


気をつけないといけないのは、目には見えない存在の語る愛は、愛じゃないことが99%だし、低俗な悪霊でさえ人はひとりでは打ち勝てない(ようは簡単に騙されるw)


あれまだ本題にぜんぜん入ってないのに脱線してるw。あれなんの話だったっけ?


そう。じぶんは宗教が嫌いだ。今でも変わらずに宗教が嫌いだ


でもそんな宗教嫌いな自分が、神(創造主のこと)を信仰してる。そんな2023年。神の実存を信じることを、宗教だと思っている人が多い2023年の年の瀬に言いたい


宗教にハマってるヒマはない
本当の神を知り死を越えよう


今年をちょっと振り返る



まだぜんぜん本題に入らないw。なんなら書きながらあれタイトルなんだったっけ?みたいに書いてる本人がなっているw。まぁでも年末なのでちょっと今年を振り返っておく


みなさん今年はよい一日でしたでしょうかね?


今年は子どもが生まれたり、ファミリーカーをもらったり、1000平米の土地をもらったりといったとてもありがたいこともあったのですが


いっぽうでシェアハウスで飛び降り自殺があったり、集落ごと大規模な詐欺にあったり、いつのまにか車泥棒や自転車泥棒になってて訴えられたりと、警察沙汰や裁判沙汰が合計7回もあった。わけの分からないようなトラブル続きの一年であった


神(創造主)を信じたら、平穏な幸福な人生(この世)が送れるよ。とは聖書には書かれていないw。むしろ苦難やらトラブルがジェットコースターのように押し寄せる。と書かれてる


世の中の「宗教」は
◯信じたら幸せになる
◯信じたら悩みが消える
◯信じたら成功できる
というこの世の"ごりやく"で溢れてる


いろんな宗教を覗き見て、しっかりと会社で働いて、陰謀論やスピリチュアルにハマったあとに、「聖書」を読んで分かったこと


「聖書」は
知識至上主義(グノーシス主義)や
お金至上主義(バビロニアシステム)や
自分至上主義(スピリチュアル)といった
広い意味でのあらゆる「宗教」との戦いの過去の歴史の記録書であり、また未来の預言書であったということ


聖書が宗教の本だと思わされているのは、罠なのだ。自分をふくめ、宗教にいいイメージを持ってる人は少ないんじゃないだろか。そこに真理である「聖書」を隠すのが、悪魔の手口なのだ。偉人や賢人の中に、イエス・キリストという本物の神(創造主)を隠したのだ


断言してもいい。世でもてはやされる啓示や哲学や絵画や音楽や知識や情報のたいはんが、反聖書であり、その背後にいる悪魔の目的は神から目を遠ざけて時間切れ(肉体の終わり→最後の審判)狙いをしてる


悪魔は神に勝てないので(正確には2000年前にすでに負けているので)、あがきとしてこの2000年、とにかく道連れを増やしてる。悪魔は「神殺し」などとうていできないことをじゅうぶんに理解しているので「神隠し」をする


人の失敗を、神の作品である「人」が欠陥品であり失敗作であることを証明したいと躍起になっている存在。そうすることで自分が間違っていなかったこと。有能であることを証明したい存在。それが悪魔


神のフリした悪魔に騙さず
本当の神に気づいてほしい
という思いで世に寄留する


子どもが今日で1歳になります。来年度も立野家をなんとかどうぞよろしくお願いいたしますm(_ _)m


神の教えと悪魔の教え



どうして聖書が神の教えで、どうしてそれ以外の情報が悪魔の教えなの?という説明は長くなってしまうので今回はすっとばすw。聞きたい方はいつでもいってくださいまし


じぶんは教会メンバーの人に10時間ちかくもらって、スピリチュアルが悪魔の罠であることや聖書が神からのラブレターであることを教わった。それから3ヶ月くらい教会にいったり聖書を読んだりしていく中で、ようやく40年分のテレビや学校教育の洗脳が解けていった。仙川にいつでもいますm(_ _)m


神の教え→人生を喜ぼう
悪魔の教え→人生を楽しもう


じぶんは4年前までサラリーマンをやっていた。それから独立して自営業っぽいことをやっていて、現在は仙川の植木屋さんでパート勤務をやっている


サラリーマンをやっていたときは、いかに仕事やプライベートを充実させるか。というのが人生であった。クリエイティブな仕事をして、休みの日は音楽フェスやキャンプや釣りに出かけていたのだ。イベントBARにいったりシェアキッチンにいったりしてたのだ


人生の方向性が自己実現だと思い込まされていたので、起業したのだ。自分なりに世の中をより良くするアイデアでマネタイズしてやるぞ!という自己表現である。「あたたかい居場所がふえる」という理念で起業したのだ


サラリーマン時代も、起業後も、人生をフルスイングで楽しんでいた方だと自分なりにおもう。そんで、SNSを通じて、「わたしはこんなことやってます」「わたしはいいことをやってます!」「わたしは間違っていないです!!」と主張していた。ただの暮らし向きと働きぶりの自慢と自己主張だw


それが、人生だと思っていた。歳を重ねて発信内容は変われど、自分の人生、自分の知識、自分の経験、自分の直感、自分の資産、自分の人間関係。。。。それらの積み重ねが、人生だと思っていたのだ


でも、神(じぶんをとある目的で創った存在)がやってほしいことは、それではなかった


楽しい人生は、続かないのだ。あなたのビジネスモデルはあなたより20歳くらい若い人がさらに素敵なスキルとセンスで越えてくよ。あなたの体力も知識も経験も廃れる。なによりもあなたは老いと病気と死をおそれ続ける


死んだら終わりだと思ってる。死後にまでちゃんと積み上げられる財産の積み上げ方を知らないまま、なんとなく働き、なんとなく遊び、なんとなく人と関わる。そんな人生は、思いのほかむなしい


病気が怖いのは自己表現が遠のくからだ。老いが怖いのは競争に勝てなくなるからだ。死が怖いのは死後をよく知らないからだ。スピや仏教は死後を示しているが、ぜんぜん根拠がないのだw


神は、合計36回も「求めたら、全部あげるから!」と聖書に書いてある。人生を喜び謳歌してほしいのは、創り手である神だ。肉体の死が死だと思い込まされているままだと、心から人生を全うできるだろか。サムライたれ


神の教え→根拠のあるものを信じよう
悪魔の教え→根拠のないものを信じよう


聖書を読んだことある人であればもう常識のような話なのであるのだが、聖書は新約聖書と旧約聖書に分かれている。そんでその内容をあえてあえて一言でいうと


旧約聖書。。。人はどこまでいっても罪人。失敗する
新約聖書。。。宗教やめなはれ。罪はゆるされてます
です。一言でまとめれるような本ではないから伝わるわけないんだけどあえてまとめるとこんな感じ


全体を通して、宗教にハマるなよ。って、神(創造主)は伝えてる


イエス・キリストは、人や地球を創った創造主(いわゆる神)が、肉体という実態をもって、分かりやすく現れてくれた創造主本人だ


これを信じるか信じないかはどこまでいっても人それぞれの域をでない。愛の前提条件は、自由意志であるからだ。神は愛であり、愛の土台は自由意志だ


でも聖書ほど、根拠に満ち溢れてる情報源は、この世に他に存在しない。フェイクニュースが簡単に捏造できるされてる世界線において、唯一疑うことなく信じれる本。それが聖書だ


1947年。とある羊飼いの少年がクムランの洞窟というところで発見した死海文書とよばれてる写本郡がある。その中に「イザヤ書」という書物もあった。これがどんでもない歴史的大発見であった


1947年。以前の「イザヤ書」は古いもので紀元後1000年前くらいのもの。このイザヤ書は紀元前700年頃に書かれた書物と言われてたのですが、多くの人が「えー嘘でしょー」となっていた書物


というのも、聖書には世界を救うヒーロー。救世主の誕生の預言が330個も書かれてて、とくに「イザヤ書」はあまりにも克明に、救世主の死に方の預言が記されていたから。イエスキリストが十字架刑にあったあとに、それを見てた弟子とかが書き加えた書物だと疑われ続けてた


死海写本は通貨の年代や文字の年代や写本学などあらゆる側面からの鑑定で紀元前200年以前の書物だと分かっている


死海写本だけではないけれど、時間の支配者である神でしかできないような技が聖書には数え切れないほどに仕組まれている。読めば読むほど知れば知るほど、聖書は神にしか書けないという確信が生まれる仕組みになっている


イエス・キリストは家畜小屋で生まれた。2000年前にいたルカという名前のお医者さんがしっかりと情報収集をした上で、各所関係者にインタビューして回った上で、時系列的にも整理しながら正確に、その誕生の様子や日時を書き残している(ルカの福音書という書物)


イエスの誕生日は、12月25日ではないw。ローマ・カトリックの前身であるミトラ教の最高神、太陽の神ミトラの誕生日である。聖書の記述では、9月〜10月だ。日本では15夜がおこなわれており、イスラエルでは仮庵の祭りがおこなわれている


日本人は、幸いな民族である。聖書を読む人は少ない民族ではあるものの、読んだたすんなりと理解できるからである。80年前までは「神の国、日本」と呼ばれていたのだから


目には見えないものは信じない。という人も多い


明日から、空気吸うなよw
明日から、電気使うなよw
明日から、誰にも頼るなw


あなたは、生まれて2年間、多くの「愛」によって生かされてきてることさえ忘れてる。この世はあきらかに、目に見えるものよりも目には見えないものが優位である。目には見えないものに支配されている


イエス・キリストは目には見えないもの世界線を信じることができない人にたいし、超分かりやすく目には見えるカタチで神が用意してくれた、物的根拠である。じぶんみたく根拠のないあやふやなものにハマることなく、歴史と科学で追える神の実存を信じよう


神の教え→救われていることを信じて
悪魔の教え→◯◯をしたら救われます


悪魔が大昔からやってる肩書と知名度とお金を追い求める競争システム。バビロニアシステムという。ビジネスのほどんどがこれを土台に構築されているのだが


いまこれを悪魔はやめようとしている


新しい時代がやってくるよ
新しい次元がやってくるよ
新しい世界がやってくるよ
と、大宣伝中であるw


そんでそれっぽいニュースや情報もどんどん流してる


今まで隠されていた闇が明らかになりました
今まで隠されていた技術が世に出てきました
今まで隠されていた闇に光が打ち勝ちました


みたいな茶番劇をこの先10年くらいで大展開してくるよ


大前提として、悪魔のシナリオの土台にあるのは「まだ救われていない」という点


2024年は緊急事態条項の可決があるし、パンデミック条約が制定する予定。いよいよ国を超えた権力による支配が動きだす。大暗闇が演出される。物価も上がる。自殺率も上がる。戦争も終わらない。疫病も流行る。人々の関係はさらに冷え、無関心になっていく。そういう時代


そこに、政治的、経済的、宗教的な救世主があらわれる。必ずあらわれるよ。多くの人が信じる。そのとき、頼れるものが見当たらず、弱っているからだ。自称気づいている人の多くが田舎に逃げ込み知らんぷりを決め込み自給自足的な生活をおくっているだろう


救世主はいう。「おれを信じるな。みんな自分を信じろ!」と


全人類、自分信仰の時代が幕をあける


それを、新時代、新次元、新世界と悪魔は呼んでいる


悪魔は、古くてダサくて雑多な中のひとつ。という印象物のなかに、神を隠す。イエス・キリストは、すでに十字架という超絶予想外が方法ですでに悪魔に勝利している。という事実を悪魔はどうしても隠したい


「宗教」のすべてが
お布施をしたら救われる
お経を読んだら救われる
善行を積んだら救われる
修行を積んだら救われる
洗礼を受けたら救われる
のような、「まだ救われていない」という土台の上になりたっている


聖書が言っていることは「すでに救われていることに気づいて信じてね」だ


気付けないのもムリはない。じぶんたちがテレビで知ってるヒーロー、救世主は、強いのだw。政治的、経済的、宗教的に強いパターンもあるけれど、まず肉体的に超人的に強いのだw。それがヒーローのあるべき姿なのだ


イエス・キリストは、大犯罪人として十字架刑という超絶キツい見せしめ刑に架けられた。その刑に架けたユダヤ教(パリサイ派)の祭司たちは言った。「おまえがメシア(救世主)なら十字架刑から降りてこい。自分くらい救って見せろ。そうしたら、お前がメシアだと信じてやるよw」と


じぶんがイエス・キリストの立場にあったら、十字架に雷を落とし、十字架を燃やし、燃え盛る火の中から現れる演出でもって、十字架から降りるだろうw。それが、じぶんの知ってるヒーローだからだ


でも。本物のヒーローは、それをやらなかった。そしてこう言った。「父(創造主)よ。彼らをおゆるしください。彼らは自分がなにをやっているのか分かっていないのです」


はじめのころは、これが自分にとってはただの昔話であった。でも自分の心の中には悪魔がいたし、自分はパリサイ派と同じであった。自分は、自分がなにをやっているのか、分からないままに、人を裁き、自分を正当化し、時には十字架から降りて傲慢に示し、生きていたのだ


人の罪は、2000年前にゆるされている。でもその「ゆるし」を受け入れるためには、自分が罪人であることを認める受け入れる必要があるのだ


あなたはお正月に、神社に行くだろう。だいたい書いている。「清め給え。祓い給え。」と。誰が、何を、清め祓ってくれるのかw


神社に行った際は、願い事をするまえに、罪を認めよう


神の教え→神が人に近づいた
悪魔の教え→人は神になれる


宗教は◯◯をして、より神に近づく。のが土台にある


スピリチュアルは、人は本来、神と一体であった。自然と一体であった。が根幹教義にある


ワンネス。人は地球とひとつ。神とひとつ。自分は神。という教えである


旧約聖書はひとことであえてまとめるとすると、「人は神にはなれない」である。神になろうといっぱい努力したり知識をつけたり権力をもったり武力をもったり国を統一したりしても、「人は神にはなれない」という、史実だ


新約聖書はひとことであえてまとめるとすると、「神が人として人に会いに来ました」である。人としての正しい生き方と、狂ってる世の中を生き抜ける本物の希望(福音という)をプレゼントに持ってきたよ。という、史実だ


悪魔🐍は、太陽神である牛に化けたり、空の支配者である竜に化けたり、豊穣の女神に化けたり、ハエに化けたり、美少年美少女に化けたりする、元スーパーエリート天使である。悪魔の主張は一貫して「人は神になれる」である


基本的に、人には悪魔の教えのほうが肌に合う。出回る情報のほとんどが、悪魔の思想を元にしているからだ。多くの人がこれから訪れる大きな社会不安に足元をすくわれ、偽物の真実をつかまされる


仮想世界と現実の区別がつかない世界になり、人々は言い出す。「オレらワタシらは何でも創りだせる。人はほんらい、ひとつなんだよ。自然とも神ともひとつだったんだよー」と


水一滴
石一粒
草一本
生み出せない人が


蝶の創り方
人の創り方
星の創り方
も何も知らない人が


愛も選べず
正義も選べず
ゆるしも選べぬ
心のせまい人が


じぶんは神だと言い始めるのだw


スピリチュアルがきわまって
自分をゆるそう
自分を愛そう
自分は神とひとつ
と言い始めた人は、悪魔にとっては操り人形みたいなもんなので、そういう人を新時代、新世界、新次元のリーダーに任命する。悪魔の奴隷である

こういう人たちは、悪魔により"この世"でのチカラを得るので、それでまた多くの人が騙されるw


悪魔の魅せる万能感に抗えるほど人の心は強くない。つまるところ、この先の時代は、神の戦士として生きるのか、悪魔の奴隷として生きるのかの2択を迫られる


聖書には、悪魔の刻印(666)を受けないと、買い物したり仕事についたりできない世界がやってくるよ。と書かれている。666とは、「人・人・人」という意味だ。神を締め出し、人を信じる時代がマジで近い


神の教え→罪を認め隣人を愛そう
悪魔の教え→世の中を良くしよう


ビジネスや宗教は、世の中をよくしようとするのが、前提ともいえる。ダメなビジネスでさえ、表面上はいいことを言っている


スピは、波動やオーラや氣をとおして、自分のポジティブやハッピーが世界を創ってる。自分のハッピー&ポジティブが世界創造・社会貢献なのだ。という根幹教義を持っている


SNSで発信されることの大半は、方法は人それぞれかもだけど「わたしはこんな手段で方法で、世の中をより良くしています!かんばってます!」みたいな内容だw


聖書には「世の中をよりよくしよう」とは書かれていない。それどころか「よくしようとしても世の中どんどん悪くなります」「なんなら次くるときは世の中終わらせに来ます。テヘッ😉」って書いてあるw


終わらせにくる本人が、人に対して言ってること。「神を信じて、罪人であることを認めて、隣人を愛してね」と言っている


悪魔の教え→愛が大事
神の教え→愛が大事


悪魔の教え→自由に生きよう
神の教え→自由に生きよう


悪魔の教え→感謝しよう
神の教え→感謝しよう


気をつけないといけないのは、悪魔は聖書を1兆回は読んでるのでw、ほぼ聖書みたいなことを言う。でもその愛や自由や感謝の導く先は、天国ではない。死だ


ちょっと文字数があれなのでまた。来年もよろしくお願いいたします。


2024年にむけて


緊急事態条項の制定が5月予定
パンデミック条約の制定が9月予定
である。引き続き、世界は狂ったままである
というか加速して狂っていく


また、マスクしてないと電車にのれない
また、PCR検査してないと病院入れない
また、ワクチン打ってないと海外に行けない
みたいな世界は間近にせまってる。次は努力義務ではなく義務である


さらに、ワクパス持ってないと買い物できない
さらに、体内チップ持ってないと仕事につけない
さらに、従わない危険人物は口座凍結&逮捕
みたいな世界もそれほど遠くない。たぶん2030年くらいの話だよ


もうハッキリいっちゃってもいいよな緊迫感だ。世界は終わろうとしている。そんで、多くの人が偽物の希望をつかまされる。すでに自分の周りには偽物の希望をつかんでフワフワしてしまってる人が多いw。まぁ自分が伝道者のひとりだったから仕方ないんだけど。仕方ないで済まされるよなことでもないんだけど


じぶんは、悔い改めて福音(罪に罰がくだされていること等)を信じた。具体的には、夫婦でマクドナルドで過去の罪を書き出して、近くの神社に行って謝った。去年の7月。福音の理解については、1年かけて徐々に理解してきた感じはあったけど、日々の選択において、愛を選ぶのか罪を選ぶのか、気にかけるようになっていった


こんな辺鄙な辺境のノートを最後まで読んでるあなたはレムナント(切れ端)だ。レムナントは、なんだか"この世"に違和感を持ち、なんだかしっくり来てない人のことだ


肩書をもとめ、知名度を求め、お金をたくさん稼いで、贅沢できる人生が成功だなんて、思えないあなたはレムナントだ


スピや宗教はレムナントを狙ってる。おれみたく騙されるなよなw


ふつうの人はこんなワケの分からないダラダラと長くて読みづらい文章をここまで読まないw


勇気をもって立ち上がることは大事だ。でもオレみたく支配者のダブルトラップにハマって遠回りしてほしくない


宗教にハマるな
スピにハマるな
本物の神を知れ


あなたは神に愛されている。ぜんぶ見てくれている
あなたのもがきは、ちゃんと神の御心にかなってる
あなたは間違ってない。と言ってる神に気づくのだ


武士道。の著者。新渡戸稲造はクリスチャンであった


雨ニモマケズ。のモデル。斎藤宗次郎もクリスチャンであった


日本人ならぜったい聖書読むべき



サムライ(ヘブライ語でシャマライ)たれ。という気持ちを込めて


今年もお世話になりました。ご迷惑各所おかけしてしまっております。来年もよろしくお願いいたしますm(_ _)m

7月の写真。今はヒゲなくて坊主ですw。写真なくてm(_ _)m

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?