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レコードに針を落とす(2019年5月頃執筆)

 区画整理された水面に輝くのは君のすがただけではない。内側から覗くタイルは空気の面に向かって光を伸ばし、鋭角60度でバラまかれた結晶が君の肌を照らす。遠影のビーチのトビウオたちは、夜毎昼毎バカみたいに飛びはねており、その騒ぎはいずれ全天を覆って雨を降らせるのだろう。この世の営みは僕よりも歩幅が広く、追いすがろうとしても、とうとう背中さえ見えなくなってきた。

 ハワイ、1982年6月。ホテル備えつけの使い古されたスピーカーから「君は天然色」が流れている。

 君の名を呼びかけると、必ず君は少し首を傾げて、なあに、と返す。
 あなたのいう君は本当にあたしなの?と、問いかけるように大きい瞳で僕を見つめてから少しだけはにかんで、
「なあに、」
といった調子なのだ。ワイキキに燦々ふりそそぐ愛に身を投げだして毎日、時々身じろぎしながら眠る君の肌はあい変わらず真白で、梳いた髪の黒だけが弱々しく息をしているようだった。

 くすぐったそうに寝返りをうって、三年ぶりの動作です、というふうに立ち上がった君は、突然僕を現実に引き戻すかのように、
「このままでいいの?」
と言った。既にアルバムの何曲目かが終わり、「カナリア諸島より」が流れ出していた。
「もう休職して何ヶ月よ、私のことなんて放っておいてもいいのよ?」
「君とできるだけ一緒に居たい。」
逡巡する間もなく出た言葉に自分が驚いていた。
「ハワイなら東京にも福島にもないものがあるだろう?だって、ここに来てから君は安定してるじゃないか。そうだろう、僕も…」
「やめて」
君の人差し指が僕の口にすっと添えられた。
「あなたは何処までも飛べるはずよ、あたしさえいなければ、そうでしょう、でしょ、あたし、ねえ答えてよ!」
一息じゃいい足りず咳き込む君の息をとめるようにきつく抱きしめた。エゴだ。
「やめてよ…」
そう言いながらも君は弱々しく腕をまわす。
「このままで良いんだよ。」
「嘘ね、」
「本当、本当さ。そんなに僕、信じられないかな?」
「違うの、でも、怖いのよ、」
「何が?」
「幸せすぎて、麻痺しそうなの、全部、」
「じゃあこのままずっと抱きしめてあげるよ。」
「それじゃあ意味ないじゃない、」
そうして純粋そうに、涙の道あとに笑みをうかべられる図太さは芍薬に似ている。美しさに思わず手を離すと、真正面から見つめられる。殺したくなってしまう。僕も見つめ返す。君の真白な顔がすこしだけあかみがかっているのは、東空の隅にささる夕日のせいだけじゃないはずだ。いつの間にかアルバムは「さらばシベリア鉄道」に差しかかっていた。

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