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恋愛における"愛情表現"とは何か考えてみる

また一つの恋を終わらせた。
私は、いつまでこのような不毛な行為を繰り返すのだろう。

今回のお相手は、愛情表現をしない人だった(さてはこいつ、何度か失敗している)。
「好き」と言われたことは一度もなかったし、相手からスキンシップをとってくることもなかった。
致すことは致していたけれど、それは愛情表現というか性欲を満たしていただけで、そこに愛があるんかは謎や。

そもそもワタクシが一方的に好きになっていたわけで、押しに押して交際に至ったわけだが、その段階で相手の好意の希薄さに気づいていなかった訳ではない。
だから、この未来を想像することはできたかもしれないし、傷付かずに済んだかもしれない。
アラサーは、もうこれ以上傷つきたくないのだ。
それでも、止められないのが恋であり、恋は正常な判断力を著しく低下させる。

そもそも、今回の失恋は私が相手の愛を享受することができず、一方的に不安を募らせ、こじらせ、勝手に嫌いになったことが原因である。
そう、愛情表現に飢えていた。

愛情表現とは、何なのか。
愛情を「表現」するものなのだから、愛情が表出しないと意味はない。
たとえ心の中でどんなに相手を思っていても、その思いを相手にわかる形であらわし出すことがなければ、それを受け取ることはできない。

こんな悲しいエピソードがある。
ある日、二人で会話をしていた時。近々、まとまった連休をとることができそうだと話すお相手。そんな話題を提供してきたのだから、きっと「二人でどこか行きたいね」なんて展開があるのだと期待していたら、その連休を使って、遠方の友人に会いに行ったり、ひとりで海外旅行にでも行こうかなーと言い出した。

ん、ちょっとお待ちになって。

完全にそこに私はいないですよね。てか、ひとり旅ってなんだよ。いや、別に行ってもいいけど、目の前に恋人がいるシチュエーションでよく言えたな。
愛情表現が言動として表出するものであるならば、言葉が一番わかりやすい。
あなたのそこには完全に愛がなかったのだ。

わかりやすく、「好き」と言ってほしいだとか、ことあるごとにスキンシップが取りたいなんて言わない。
何気ない言動の中に、あなたの愛が感じられるならば私は安心なのだ。

あいみょんは、愛を知るまでは死ねない私なのだ!と歌った。
愛に飢えた私は、まだまだ死ねないだろう。


【今日のたわごと】
暑さがぶり返したある秋の日に食べたスヌーピーショコラのアイスが可愛かった。

さて、今日も生きていく。

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