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言葉を発信するということ

10月より、Podcastを始めた。
一緒に番組を作ってくれているのは、高校の同級生。

高校時代、私は片田舎の地元から抜け出したくて仕方なかった。
学校へは、海沿いを毎朝約40分かけて自転車で通学していた。
潮の臭いと強い風、唯一の楽しみはウォークマンで聞く音楽とPodcastだった。
※自転車でのイヤホン使用は禁止されている場合があります。各都道府県の交通規則や条例に従いましょう。

行きと帰りで約80分。さらに自宅で勉強をするときも常に何かを聞いていた。
当時は今と比べるとPodcastが気軽に配信できるプラットフォームは少なく、ラジオ番組の番外編といったものが多かった。
そんなラジオ番組について語れる唯一の友人が、今一緒に番組を作っている彼であった。
狭い世界にいた私たちは、狭いわりに密度と湿度の高い教室の中が全てで、海の先にある広大な世界の知識のほとんどをラジオやテレビで埋めていった。
ゆえに私の知識は大変に偏っている。

そんなエンタメに救われ続けた高校生の私たちが大人になったとき、自身がPodcastをしているだなんてびっくりだ。
誰かの声を聞いていた私が、誰かのもとへ声を届ける日が来るなんて想像もしていなかったから。

ラジオやPodcastを聞き続けてきた私は、幾度となく言葉に救われてきた。
プロであれアマであれ、受け身にとって、言葉の重みは大きい。
何気ない配信者の一言に救われることもあれば、傷つくこともある。
だからといって、言葉に制限を受けることがない点も、音声メディアの良さであると私は思っている(意図的に個人を侮辱することはもちろん許容されるものでない)。

一方でPodcastを編集している際に、「今の発言で誰かを傷つけないかな」と考えてしまうことや、「この言葉尻嫌だな」と思った部分をカットしまくっている。
見え方ならぬ、聞こえ方を意識してしまう。
きっとそれは、長年聞き手であった私だからだと思う。かつての片田舎の青年は青い日々を生きられずに、もがきながら、イヤホンの向こうに救いを求めていたのだ。


言葉に誠実でありたいと思う。


言葉には、人の生き様が現れている。音楽の配信に制限があるPodcastは、言葉一本勝負だからこそ、より一層言葉の熱量が高いのだと思う。

noteでもPodcastでも、言葉を発信するということ、それを受けるということ。
私の生き様を晒し、誰かの生き様を覗きみる瞬間は尊いに決まってる。

さて、今日も生きていく。


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