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そこはただ、家族がいるだけの場所でしかなかったのに。

\今年もこの季節が来た!/
アドベントカレンダーの力を借りて振り返るnote。もちろん今年も真っ白な頭を振り絞って真っ白なnoteの画面と向き合っている。さらに今年は誰かの大切なキーワードをいただいているから、じっとそれを心に響かせて何が浮かんでくるだろうと想いを馳せて瞑想。(間に合うのか?)

私が受け取ったのは『故郷・ふるさと・地元』。

ああ、このキーワードどうやって振り分けたんだろう、絶妙すぎる。
私にとって『故郷・ふるさと・地元』とはただ家族がいるだけの場所でしかなく、それ以上の思いもない、田舎で、何の刺激もなく、会いたい人もいない、味わいのないものだ、終了。となっていたかもしれないのに。

それが変化し始めていることに私は気づいている。

それを書き留めてみたい。
もし良かったらお茶でも飲みながらお付き合いください。


祖父が亡くなった春の日のこと

今年7回忌だった祖父が亡くなったのは、春の暖かな天気の良い日だった。
口数の少ない寡黙な人だった。身近な家族の死を迎えたのは初めてで、悲しさと、寂しさと、いろんなものが入り混じって言葉に形容できない何かを強く感じた。今でもそれが何かは分かっていなくて、死とは何だろうという問い、それに近いもののように感じるし、全く違うもののようにも感じている。

祖父の葬儀は自宅で執り行われた。とても印象的で心に残っている。こういう表現は適切ではないかもしれないが、私はその光景をとても美しいと感じたのだった。

田舎の家なので、全ての襖、全ての掃き出しの窓を開け放って作られたその空間は”内”と”外”が曖昧になったように感じられた。そしてそこでは”生”と”死”が、”人工物”と”自然”が、”家族”と”他者”が、普段は別の領域にいるものたちの境界が緩やかに入り混じり、新しい気配を生み出していた。「あわい」とはこのような空間、あるいは空気、状態を指すのではないだろうか。お坊さんのお経を読み上げる声、風が柔らかに通り抜ける感覚、木々のざわめきや水の流れる音、人々の感情が湧き流れ出す気配を感じながら、そんなことを思っていた。

最近になってようやく、これは「いのちのあわい」と言えるのかもしれないと、その美しさに名前をつけた。祖父は自分が死んだときにこの光景が見たくてこの家を設計したんだろうか。仏前で手を合わせながら思う。

そして私が死んだときも、この場所でこの光景に包まれていたい。
初めてそんなことを思った出来事だった。


祖母が倒れた夏の日のこと

今年のある夏の日、祖母が倒れたと連絡があった。病院に運び込まれてそのまま緊急手術をしてしばらく入院するという。手術は無事に終わり後遺症も残らないだろうと説明があったことを聞き、ぎゅっとなった気持ちが少し緩んだ。
1人で畑にいることも多い祖母なので、もしその時にことが起きていたら助からなかったかもしれない。

たまたま病院へ行った時の待合で倒れ、たまたま倒れた時に普段看護師をしている方が近くにいて(その人も診察のために来ていた)すぐ介抱して救急車を呼んでくれて、たまたま娘である母が付き添いで一緒にいて、そして受け入れ後に即手術のできる病院に入ることができたこと。奇跡のような偶然の重なりに、祖父が助けてくれたのかもしれないと家族皆で言い合った。いつも祖母は命日にはお墓を掃除して花を飾って拝んでたんだよ、ずっと一緒にいたから祖父はすぐ助けることができたんだね、きっと。

8月の祖父の命日直前のことだった。
家族皆で祖母がしていたように墓掃除をして花を飾り、祖母を助けてくれたお礼を言って無事であることを報告した。みんなで喜びながら、でも少し不安とかさびしさのようなことば未満の気配もそこにあったように思う。


家族とのつながりの変化

唐突だけど、田舎にとってオンラインの発展は本当にありがたいものだとしみじみする。両親もスマートフォンを使い始めてLINEグループで家族皆でやりとりすることが増えた。テキストでも何か場のようなものが生み出され、表情豊かに、家族の距離がぐっと近づいたようなきっかけだったと思う。

「桜が咲いたよ」
「沈丁花のいい香りがしてるよ」
「紅葉が見頃だよ」
「新米送るよ」
「雪が降ったよ」

慌ただしく流れすぎていく毎日の中、両親から届くことばによってふとその季節の気配を感じとる。そして送ってくれた写真を見ながら、妹たちと「きれいだね」とか「次に帰るときに見れるかな」とか、たわいもないやり取りをする。

最近気づいたのだけど、こういうやり取りをしているときにちょっと泣きそうになっている自分がいる。目の奥がじんとして、のどの奥がじわっとする。そして繰り返し繰り返し頭の中に浮かんでくることを反芻する。


神さま どうか 

庭や畑に咲く季節の野花を生けて、目を楽しませてくれる祖母の素朴な感性に触れ続けていられますように。きれいでしょと笑う祖母の笑顔がずっと続きますように。

初めて自分で庭に植えたアーモンドの木に花が咲いて、大きくなったらアーモンド食べ放題かも!などと喜ぶ父と一緒に、食べきれないくらいアーモンドを収穫して「食べきれないね!」って言いながらその季節を何度も迎えることができますように。

ずれた時期にキウイフルーツの枝を剪定したら切り口からぽたぽた樹液が溢れてきたと話して「本当に泣いているようでね、申し訳なくて。それからはちゃんと時期を守るようにしてる。」と肩を落とす母がキウイフルーツの木と仲直りできますように。そしてたくさんの実を毎年みんなで収穫できますように。

離れて暮らす妹たちと、こうして季節を感じながらたわいもない「家族あるある」で永遠に笑って過ごせますように。そして時に集まり、そのひとときを楽しんでいられますように。

そんな願いのようなものを祈りながら、気づいたら泣いている。
わかっている。永遠なんかないし人は遅かれ早かれいつか死ぬ。でもその気配が、自分に何かを気づかせようとしてくれている。そしてこの涙は、悲しみではなくもっとあたたかいものが流している。


まだ、どこに着地するかわからない

家族や地元に対して、こんな気持ちになるなんて思ってもなかったな。昔の自分はある側面だけを見て、それを否定し続けることで自分の中にあるものを守っていたのかもしれない。それに何か変化が起こっていて、そうでない側面から今まで見ようともしてこなかったものを今受け取っているのかもしれない。ただ単純に歳をとり、丸くなっただけかもしれないし、いわゆるミッドライフクライシスというやつかもしれない。

一つの土地に根ざして生きることは当然美しいことばかりではなくて、きれいごとではどうにもならないことも飲み込んでいかなければならなくて。そして自然は人を解放してくれるだけではなくて、強く人を縛りつけるものでもあると思っている。

その両極のあいだにいて、日常に流れるものを掬いとって表現する家族のまなざしが、安らぎをもたらしてくれていると感じる。この変化は何だろう、それに好奇心を向けながら家族との関わりも少しずつ変化していくと良いなと思っている。

着地点はまだわからない。それでいい。その変化をプロセスをひとつずつ確かめていく。ことばにしてこなかったものは、そのまま置いておく。それによってバランスを取っているものも多くあるだろうから。

それではまた。



りみさん&まーさん、企画ありがとうございます🎄
今日は23日目、完走まであと少し!
ぜひごゆるりと。
参加されている皆さんの物語に触れ、楽しんでくださいね。


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