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人生転落したエリートサラリーマンが    V字復活した大逆転ストーリー(第4章)

〜第4章〜 エリートサラリーマン

大学生活は、部活に、バイトに、合コンに楽しんでいました。

かつて私が思い描いた夢・・・「プロサッカー選手」「旧7帝大合格」
これらに挫折してしまいましたが、私にはまだ夢が残されていました。     それは親が喜ぶような大企業へ就職する事です。

しかし、僕が就職活動を始めた時期はリーマンショックの煽りを受けた経済不況で「就職氷河期」と言われた時代だったのです。

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(「大手だから倒産しないだろう」という言葉が通用しなくなった)

会社説明会では、どの企業の人事担当者も「100年に一度の経済不況」
という言葉を発していたのです。
例年は4年生の4〜5月には内定が決まっているのですが、僕は9月にやっと内定が取れたほどです。最終的に3社から内定を頂けたのですが、その中でも一番名前の通った大手企業に私は就職を決めたのです。

その理由はもう皆さんお分かりですよね?
そう、私は親を安心させ、そして笑顔にさせたかったのです。その会社は今となっては誰もが知る某有名生活用品メーカーだったのです。

そんな、私は初年度でいきなり島流しにあったのです、
そう私の配属先は沖縄だったのです。

沖縄

(実際は沖縄本島に配属されました)

島流しと書きましたが、「最高の」島流しでした。
私の沖縄生活はやる気と希望に溢れていたのです。

そして何と、結婚し離婚することになる妻とも出会ったのです

沖縄での仕事はというと、
所長とたった2人の狭い営業所が私のスタートでした。

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(赤枠が営業所。7畳ほどの1R。オフィスビルのイメージが崩れ去りました)

毎日が朝礼当番で1分間スピーチの担当でした。
あの時の経験が喋ることのスキルを磨いてくれたんだと思います。
当時の所長や、周りのサポートを頂き、そしてお客様にも恵まれ、
入社5年目の9月に同期入社では「最速で」「所長」の任命を受けたのです。
その頃には結婚・出産も重なり、公私共に順調でした。

妻とはひょんな事がキッカケで出会ったのです。

知人と晩御飯を食べようと、観光地で有名な「国際通り」で店を探していた時でした。

沖縄 国際通り

(国際通り)

「お兄さん達、居酒屋探してますか?」

声の方を振り返ると、可愛いらしい女性店員がビラ配りをしていたのです。
(当時の私には、なぜか可愛く見えてしまったのです)
「はい、ちょうど居酒屋探してます。見つからなかったら、お姉さんの店に行くので電話します。連絡先を教えてください」

この会話が人生において重要な意味を持つと、思ってもみなかったのです。
結局は、別の店でお酒を楽しんだのですが、連絡先を交換していたのでメールでの連絡は続いていました。
しばらくの間、連絡を続けたり、たまには会ったりする中で僕は彼女に惹かれていったのです。

そして・・・

〜気がつけば結婚していたのです〜

これが私の人生のピークでした笑

しかし、結婚・出産と順調だった私にとって苦しい時期が始まったのです。
徐々に営業所の売上が苦戦していったのです。

「何とかしなければ」ともがき、朝5時に起きて6時にオフィスにいたり、
土日も合間の時間を見つけてはパソコンで事務作業をしていたのです。
しかし、売上は思ったほど上がらず苦しい時期が続いたのです。
あんなに売上げが良かった時期が、一転して何をやっても上手くいかない。その当時は、朝から吐き気が止まらない事がよくあったのです。
(私は書きながら、思いました。
サッカーや勉強が全く上手くいかなかったあの高校時代と一緒だと。)

そう、何とかしたいと思ってもなんともならなかったのです。
沖縄の「なんくるないさ〜(なんとかなるさ)」は僕に無縁でした
「なんくるなってないじゃん・・・」

私の潜在意識には上手くいかないことがイメージされていたのです。
そう、私は「楽しんでいる時」しか上手くいかない男だったのです。

何をやってもうまくいかない時期を経て、その結果沖縄を離れ、
東京に転勤することになったのです。

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東京で数年働いた後に、なんと私に海外営業のポストが回ってきたのです。
その時は率直に「嬉しかった」です。
苦手だった英語が得意・好きになり、英会話も不自由ないレベルにまでなっていた私がそこにいました。
その中で海外志向が強くなり、社内公募で海外営業に立候補したのです。

結果、私は海外に飛び立って行ったのです。
北米・東南アジアへ一人で海外出張を組んでは展示会に参加したり、
新規開拓をしたりと英語での仕事を楽しんでいたのです。

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(アメリカ:ロサンゼルスにて)

(左:輸入してた商品をバックに 右:輸出業者のスタッフと社長さんと)

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(社長からディナーの招待を受けた)

売上をどんどん伸ばせたので、この時は数ヶ月に1回は海外出張でした。
結果、アメリカ(ロス、シアトル)・マレーシア・シンガポール・タイ・ベトナム・インドネシア・台湾に出張をさせて頂きました。

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(ベトナム:ホーチミンでの商談会)

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(台湾:台北での商談会)

ここでとある転機が訪れました

アメリカはロサンゼルスで市場調査をしている時の出来事です。
何気なく入ったスーパーで、ふと手に取った商品に衝撃を受けたのです。
当時の日本では全然見かけないような食品でしたが、アメリカのスーパーでは所狭しと並べられていたのです。
「アメリカのブームは数年後には日本で流行る」可能性が高いことも理解していたので「将来的に日本でも流行りそうだ!」と直感で感じたのです。
そう思った途端、私の心はその会社に向いていて、気づけばその会社の面接を受けていたのです。
それが、後の転機になるとは夢にも思いませんでした。
ロサンゼルスのスーパーでの一瞬の出会いが、新卒で入社した大手企業との別れのキッカケになるとは思いもしませんでした。

何とその外資系の食品メーカーに運よく転職出来たのです。
(今となれば、よく採用されたものだと感心してます)

ワクワクした私の第2の人生が始まったのです。

しかし、「この商品を日本中に拡げたい」という思いは
また脆くも崩れ去ることになるのです。
なんと会社の方針が急転換し、私の思いと合わなくなってしまったのです。

またしても夢打ち砕かれた私は、もはやそこに居ても楽みを覚える事ができず、
またもや挫折をしたのです。

そんな頃に、今度は私生活でも問題が起こっていたのです。。。

妻との関係が悪化していたのです。
私の小遣いは「月1万円」だったのです。

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月初に飲み会に誘われたらその時点で、黄色信号(いや、もはや赤信号)。
そんな状況だから、飲み会や遊びのお誘いは全て断らざるを得ない状況に。

少ない小遣いで、毎日が家と会社の往復ばかり

「俺の人生、これでいいのか?」「自分で自由に使えるお金が欲しい」

と強く思い、副業を探し始めた私がいたのです。

「自分が優秀と勘違いしている大馬鹿者の私」がそこにはいました。​

「このままじゃいけない・・・」
「俺は、もっとできるはず・・・」
こう思ったことのある人は多いのではないでしょうか。

しかし、この考えが危険なのです

月1万円の小遣いでは初期費用が発生するビジネスは到底不可能だったので、派遣で日払いの仕事をして私は資金を貯め始めていたのです。
(会社や妻にバレないように)

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プロローグ

〜第1章〜 幼少期

〜第2章〜 サッカー漬け、そして挫折

〜第3章〜 大学受験

〜第5章〜 転げ落ちる人生

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