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「ナチュラル・ウーマン」を読む

「ヴァギナ・モノローグス」という本がある。

内容はというと200人の女性たちが自らの女性器について率直に語る...というスゴイもので、中でも高齢になるまでずっと処女だったという人が、自らの女性器を「地下室」と呼んでいたのが印象深かった。

この地下室という喩えは、当然彼女の経験が反映されているものだが、もっと詳しく心理分析をしてみたいと気がする。彼女は自らの「女性」を、地下室に潜ませている。

聖書の黙示録で示されるヴィジョンでは、コスモスの表象は一方で母性と、他方では強大な龍とに別っている。そして母性なるものは龍に迫害を受け荒野に身を潜めるのである。この龍は、サタンやルシファーなどさまざまな魔に姿を変えながら出現する。そして人に乗り移って獣にしてしまう。

これは性についても同様のことが言える、と俺は考える。男女の性交においては、男性は獣になりうるが女性は獣にはならない。つまり、性交は男性側が獣にならない限りは首尾よく成立しない。

では、女性同士が性交を試みた場合はどうか?はたして成立するのか、それは性交といえるのだろうか。

松浦理英子の小説「ナチュラル・ウーマン」では、女性同士の性愛は可能なのか?という問いが根底にある。松浦はこの小説を「性愛小説」と呼んだが、俺はそれ以上のものだと思う。日本文学の達成点であると信じる。

この小説で示されるヴィジョンは根源性を超越している。

この小説は三つに章立てられていて、それぞれに「いちばん長い午後」「微熱休暇」「ナチュラル・ウーマン」と名付けられている。各章には一人ずつ別の女性がいて、主人公の「私」と共に過ごした時間が描かれている。もっとも、各章ごとに何かしら小説の結構を決めるような、役割が与えられている訳ではない。主人公と彼女達は、恋をし、結局は恋愛感情のもつれの末に別れる。ただそれだけの話なのだ。

こう書いてしまうと如何にも普通の恋愛小説のようだが、描かれる様相が異常なのである。例えば「いちばん長い午後」に登場する夕記子、「ナチュラル・ウーマン」に登場する花世は、主人公に対して、極めて激しい敵意をあらわす。嗜虐心とさえ言える。また、その状況自体が関係性を破綻させる理由でもある。

そして恰もそうなることが恋愛の自然な流れであるかのように、プロットが進行していく。ちょっと考えれば、尋常ではない事は分かるだろう。しかも、このような状況に至るまでの経緯が意地悪く省略され、核心の部分が詳らかにされないのである。
もっとも、手掛かりがないという訳ではない。

「じゃあ分かっているんでしょうね。人はあなたのいやらしい欲望に調子を合わせてあげているんだって事を」「分かっていますとも」神妙に答える。「私は人様の寛大な了解を得て好き勝手に振舞わせていただいているんです」...(略)「嫌味を言ったってあなたの方じゃそれを喜んでいるんだと思うと、何も言いたくなくなるわ」「会話においてはけちなのね。肉体面では気前がいいのに」言い終わるか言い終わらぬかのうちに、眼の上に手の甲による一撃が見舞われ、私は顔を手で覆った(ナチュラル・ウーマン/松浦理英子)
「御覧なさいよ、皇帝に仕える家来みたいな図じゃない。言っとくけど、あなたの方が皇帝よ」私は跳ね起きた。「本気でそう思っているの?あなたが暴君気取りだったことは一度もないの?」...(略)「ねぇ、聞いて」私は出来る限り柔らかい口調で話しかけた。「あなたは私をエゴイスティックな快楽の乞食と見ているんでしょうけれど、私がただ欲望だけに突き動かされて物乞いしているのではないことは、あなたも知っていると思うの」相槌はない。「あなたは人の心の動きに敏感だし、やることなすこと的確だし、私の十倍も優しい人だということはよく分かっているわ」(ナチュラル・ウーマン/松浦理英子)

ここで示されるのは、相手を深く理解するというのは相手を脅かす事にもなる、という身も蓋もない事実だ。ただし、いつも脅かされる側にあるのは、主人公ではなく、相手の方であるのだが。

非常に巧妙だと思うのは、この小説は主人公の「私」の一人称小説という体裁をしていながら、ほかならないこの「私」が、全く隠されてた存在になっている点である。つまり、三人の女を通して主人公の「私」の謎が顕在するのだ。

しかも、この謎は氷解しない。隠されているといったが、要するに存在していないのだから。一体どういう事か?

「あなたと会ってナチュラル・ウーマンになったと言っていたわよね、昔?」「言ってたわよ」「あなたはどうなのかしら?いつかナチュラル・ウーマンになるのかしら?それともそのままでナチュラル・ウーマンなの?」耳に入った瞬間に心臓の膜を破り血に混じって体中に回りそうな質問だった。「考えたこともないわ」辛うじて言葉を返したが涙がにじんだ。自分が何なのか、いわゆる「女」なのかどうか、私には分からない。(ナチュラル・ウーマン/松浦理英子)

...作中ずっと、主人公の「女性」が隠蔽されているのだ。繰り返すが、作家は女性同士の性愛を書こうとするがその試みは予め失敗する運命にある。女性同士である以上、相手との性愛は原理的にありえない(俺はそういう立場をとる)

だから主人公の「女性」は隠されている。そうやって奇妙な「恋愛」が創りだされた。かくして、女性でも男性でもないリビドーの怪物が出現して、この奇妙な性愛は成就するに至る。しかしそれは男女の性交時の合一感は見られない。

彼女たちのイマジネーションは、肉体的な感覚としての刺激・快楽のみに向けられる。するとある幻想が立ち現われる。この幻想には明瞭なフォルムがある。

「何をしているの?」肛門という場所が性戯に用いられるのは珍しいことではないとの知識はあったが、そうした性戯には挿入する例のやむにやまれぬ欲望と挿入される側の不安や抵抗の衝突といったドラマがつきものだと思っていた為か、こうもあっけなく成立すると性的な行為というよりも笑いを誘う悪戯でもされているようで、勘が狂ってしまったのだ。指はさらに奥へと差し込まれた。差し広げられていく感覚が喉の辺りにまで走り、私は頬を蒲団に埋めた。かつてないときめきが全身に広がり呼吸が乱れた。(ナチュラル・ウーマン/松浦理英子)

解説で多和田葉子が「性愛の器官として肛門はすでに古典的といえるかもしれない」と言っているが、俺は疑わしく思う。今まで多数のゲイポルノを鑑賞してきたが、同性愛者が単純な肛門への刺激のみでオルガスムにまで至るのをはっきりと見た記憶がない。

そういえば、ゲイ作家レイナルド・アレナスの自伝「夜になるまえに」の中で、いくつかある彼のオルガスムの描写は、手淫・女性との性交・肛門に挿入する側としての性交をしている時だった。「性愛の器官としての肛門」についての記述は一行もなかったのである。

この小説は巧妙に繊細に作り上げられた、超一流のファンタジーである。「性愛の器官としての肛門」も、主人公同様、虚構だ。評者である多和田葉子や桐野夏生らは、この小説を性愛小説と賞賛しているが、さて松浦理英子はどう思ったか。

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